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地球千鳥足Ⅱ №38 [雑木林の四季]

 バッグをギユツと抱え戦史と行動史を辿る旅
   ~フィリピン共和国~

      小川地球村塾塾長  小川彩子

 フィリピンという国名からあなたは何を連想しますか。日本やカナダ等世界中への出稼ぎ? 素晴らしい無血革命を成し遂げたあのピープルパワー(People Power)? 今は亡きコリー(コラソン)・アキノ元大統領の笑顔? 日本軍のコレヒドール島占領とバターン死の行進?と、歴史上の事件を逆に辿ってみたが、私にとっては常にバッグをギユツと抱えて歩かねばならない国。2012年の今回も、1987年、コリー政権下も、1979年の戒厳令下も、だった。33年前と同じ手口の睡眠薬強盗の記事が現在も観光客を怯えさせるが、想像を絶する貧困に喘ぎつつ明るい笑顔を忘れない人々も変わりなかった。訪問3度目の今回は日本軍による「バターン死の行進」跡を辿り、若き日の私の行動の跡も辿ってみた。また、戒厳令下の一人旅で、睡眠薬入り魔のビール、サン・ミグエルを振る舞われ、お金やフィルムを抜かれた雑炊屋を再訪した。
 スペインに300年以上、アメリカに48年、日本に3年支配されたフィリピン。1942年4月9日、日本がコレヒドール島を占領、投降した米比の捕虜7万6000人の半数以上をマリベレスからサン・フエルナンドまで3日間行進させた。マラリア、赤痢の蔓延する中、炎天下の行軍とあって7000~1万人がマラリア、飢え、疲労その他で死亡したものと見られている。これが悪名高き「バターン死の行進」だ。夫は当時の捕虜の気持ちを知りたいと、この行軍の出発地、0キロメートルポイントのマリベレスから5キロ地点まで歩くと決めた。私は1時間後タクシーで出発、1キロごとのマーカーを探しながら5キロ地点で夫を拾うことにした。1メートル余りの高さで尖塔のある白いマーカーには、倒れ死す寸前の捕虜2名の姿が描かれている。私は102キロのうち80キロまで撮りまくった。5月末の暑い日だった。こんなに長い距離、しかも坂道を炎天下、飲まず食わずで歩いたら死ぬしかない、と思いながら。私のタクシーの運転手は妙齢だったが、「死の行進の跡を辿るお客は貴女が初めて」と言い、「あ、あそこにある」「今度はここです」とマーカー探しに協力してくれた。所々に死の行進を悼む慰霊碑もあった。
 満潮時に捕虜が死すサンチャゴ要塞があった。第二次大戦中日本軍が占領、水雫の地下牢で、多くのフィリピン人が満潮時に水死させられた。「征服すれば容赦なし」のこの水攻め要塞では海水が入り込む穴が口を開け、見るもつらい。マニラ市のど真ん中で神も仏もない地獄社会が展開されていたのだ。一緒に来た運転手ジョナサンは二私は祖母に育てられました。その祖母は日本兵にレイプされました。でもそれは終わったこと、今では歴史です。もう忘れました」と言ってくれた。
 33年前の1979年、アジア最古の大学の一つ、UST(聖トマス大学)を訪問した。威厳のある正門から入り、学生たちと話し裏門に抜けると……純朴そうなおじさんに誘われある雑炊屋へ。ビールをご馳走になった。隣の2階でおじさんの妹君にマッサージを施され、まどろんでいる間に財布の中身もフィルムも抜かれたのだが、あの時同様、雑炊屋は狭く奥行きは長かった。だが改装され、隣家への恐怖の階段はなかった。店内には客2、3人、今度は自分でサン・ミグエルを買い、客に振る舞い、無事USTの表側、正門へ戻った。今回は、お金もフィルムも抜かれずに。
        (旅の期間一2012年 彩子)

『地球千鳥足』 幻冬舎


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