SSブログ

浅草風土記 №17 [文芸美術の森]

続吉原附近 2

       作家・俳人  久保田万太郎

          

 「……そこに、まず、わたしたちは、かつてのあの『額堂』のかげの失われたのを淋しくみ出すであろう。つぎにわたしたちは、本堂のうしろの、銀杏だの、椎だの、槙だののひよわい若木のむれにまじって、ありし日の大きな木の、劫火に焦げたままのあさましいその肌を日にさらし、雨にうたせているのを心細くみ出すであろう。そうしてつぎに……いや、それよりも、そうした貧しい木立の間から山谷堀のほうをみるのがいい。――むかしながらのお歯黒のように澱んで古い掘割の水のいろ。――が、それにつづいた慶養寺の墓地を越して、つつぬけにそのまま遠く、折からの曇った空の下に、千住の瓦斯タンクのはるばるうち霞んでみえるむなしさを、わたしたちは何とみたらいいだろう?――眼を遮るものといってはただ、その慶養寺の境内の不思議に焼け残った小さな鐘楼と、もえ立つようないろの銀杏の梢と、工事をいそいでいる山谷堀小学校の建築塔(タワー)と……強いていってそれだけである」
「雷門以北」の「待乳山」のくだりに、去年のわたしはこうしたことを書いた。
「わたしたちは天狗坂を下りて、今戸橋をわたるとしよう。馬鹿広い幅の、青銅色の欄干をもったその橋のうえを、そういってもときどきしか人は通らない。白い服を着た巡査がただ退屈そうに立っているだけである。どうみても東海道は戸塚あたりの安気な田舎医者の住居位にしかみえない沢村宗十郎君の文化住宅(窓にすだれをかけたのがよけいそう思わせるのである)を横にみて、そのまま八幡さまのほうへ入っても、見覚えの、古い土蔵、忍び返しをもった黒い塀、鰻屋のかどの柳――そうしたものの匂わしい影はどこにもささない。――そこには、バラックの蕎麦屋のまえにも、水屋のまえにも、産婆のうちのまえにも、葵だの、コスモスだの、孔雀草だのが、いまだにまだ震災直後のわびしさを、いたずらに美しく咲きみだれている……」

 おなじく「今戸橋」及び「今戸」のくだりについてわたしはこう書いた。
 ……が、わずか一年半ほどの間に、そうしたくずおれた光景はあとなく掻消された。――ということはすべて整理され、準備された。――その「隅田公園」の一部(ただしくいえばその敷地の一部)の新鮮さにうたれたあと、以前とはまるで勝手の違った環境のなかを待乳山へ上ったわたしは「待乳山聖天堂再建」についての木の香あたらしい寄進札の羅列をまず境内の両側にみ出した。(千円、二千円、三千円という大口のものは、べつに葭簣っ張の、花壇のような小屋がけのなかにことさらいちいち制札にしるされて並んでいた)そうして、その再建せらるべき本堂の縮尺五十分の一の絵図面の、青写真に焼かれて堂々とその間に介在するのをわたしはみ出した。――と同時に、バラックの仮本堂、そのうしろの「劫火に焦げたままのあさましいその肌を日にさらし雨にうたせている」 ありし日の大きな木の、嘗てのその生々しさを失ったのをみ出したとともに、銀杏、椎、槙、それらの若木のむれの、決してもうそこに、嘗ての日のひよわさを感じさせていないのをまたわたしはみ出した。――むしろわたしに、伸立って行くものの力強さが感じられた。
「……恢復している ――矢っ張、恢復している」
 わたしは自分にそういいつつ、山谷堀のほうをみ下した。が、「お歯黒のように澱んで古い掘割の水のいろ」は、隙なくいつか立並んだ崖の下の屋根々々に完全に遮られた。みえるのはただ、対岸、慶養寺の墓地の空高々と干された竹の皮のむれ。……とのみはいうまい、竣工した山谷堀小学校をみよ、巍然とそこに(実にそれは小梅小学校以上に)あたりを払ってそそり立っているではないか……
 わたしは間もなく天狗坂を下りた。――といっても、その裏みち、以前のように暗く建込んだ家々の間に落ちこむ、急な、けわしい勾配をもった細い石段ではなくなった。――そうしてもうそこを下りても、再びわたしは、古い佃煮やの「浜金」を、店のまえに網を干した何とかいったあの船宿をみるよしがなくなった。
「…………
  …………
 『有難う』と鈴むらさんはいった。『浜金のまえにうまい蕎麦屋があってね。――雨がふろうが伺うしょうが、日に一度は、必ずそこへ蕎麦を喰いに来るんで、今戸橋をわたる』
『浜金のまえに、角に、以前、船宿が一けんありましたけれど、いまでもまだありますかしら?』
 と、せん枝はいった。
『いまでも其奴はあるよ』
『以前、よく、あの軒に網の干してあったのを覚えていますが……』
『いまだに天気のいい目は干してある。――つり舟と書いた行燈もまだ以前の様に出ている』
『浜金の内儀さんも年をとったでしょうね』
『つまらない心配をしているぜ』
『旦那、色気じゃァありませんよ』
『分っているよ』と、鈴むらさんは、わらった」

 大正四年四月の「中央公論」に書いた、わたしの作「今戸橋」の一節である。盲目の落語家せん枝とその晶眉の客の鈴むらさんとに、わたしはこうした応酬をさせた。――なぜこうした応酬をさせたかということは、いいかえてまた、どうしてわたしがせん枝を瓦町に住ませ、どうして鈴むらさんを今戸に住わせたかということは、そのあたりのわたしにとって子供の時分からの好きな場所であったばかりでない、いまにしてはッきりいえば、永井〔荷風〕先生の名作「すみだ川」によって示唆されるところ多大だったからである……


『浅草風土記』 中公文庫


nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。