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海の見る夢 №67 [雑木林の四季]

       海の見る夢
           ―イカロスの失墜―
                     澁澤京子

 ・・さて、ヘロデは占星術学者たちに騙されたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺にいた二歳以下の男の子を一人残らず殺させた。 マタイ2・16~(ユダヤ人の王が生まれるというお告げを聞いたヘロデは国中の幼子を殺した。幼子イエスとその母マリアはヨセフと共にエジプトに逃れていたので助かった)

もうすぐクリスマスなのに気持ちが沈むのは、やはりパレスチナのことがあるからだ。古代に、疑心暗鬼となったヘロデ王が起こした虐殺より、比較にならないほどひどい虐殺が同じ場所で行われているとは・・空爆が再開され、たった一日で700人以上のパレスチナ人が亡くなった。おそらくその半数は子供だろう・・イスラエル政府は、パレスチナ側が赤ん坊の人形を使って騙している、フェイクだと、公表したらしいが、それがイスラエル政府のウソに過ぎないのは、たとえばツイッターでGAZAあるいは「UNRWA」「国境なき医師団」で検索して流れる実際の映像を見れば一目瞭然。イラク戦争のころから、見え透いたプロパガンダに人があまり騙されなくなったのは、SNSの登場によって現地の映像を私たちも瞬時に見ることができるからである・・

イラク戦争の時は、脳みそを吹き飛ばされた子供を抱いた父親の写真に衝撃を受けたが、(5年間の間、イラク人死亡者は4万人)しかし、今回のパレスチナでは毎日そういう写真が次々と流れてくる。二か月もたたないうちにパレスチナで殺された子供の数はおよそ10000人以上、平均年齢5歳(およそ、になるのはカウントする4人が殺されたから)もはや、イスラエルの言い分とか、パレスチナ問題は複雑とか、右派とか左派のイデオロギーの話ではなく、今の状況はとてもシンプルで、ジェノサイド(特に子供の)を容認できるか、できないかの話だと思う。

日本のメディアはイスラエルメディアを真に受けた偏向した内容のものが多い。数少ない良心的なジャーナリストのひとりはTBSの須賀川記者。

瓦礫に埋もれたまま、まだ行方不明の子供、空爆により手足を失い、身体障害者となった子供の数を合わせればさらに膨大な数になるだろう。他の国の子供たちは、もうすぐやってくるクリスマスを楽しみにしているというのに、両親を失い、さらに自分も片足、片腕を失って血だらけで病院の床に寝かされているパレスチナの子供たち。

フランクルは『夜と霧』の中で「・・最も善良な人々は、みな逝ってしまった」と書いたが、半数の犠牲者が子供の今のパレスチナがまさにそうではないか。イスラエル政府の、どんどん土地を奪いながらパレスチナ人を追放し、追放できないとわかれば封じ込めて虐殺というのも、ナチスのやり方と似ている。相手の評判を落とすためにプロパガンダをばらまくという、卑劣なところも。

アウシュヴィッツも、パレスチナの民族浄化も、突然起こったことではない。長い期間にわたる人種差別、そして隔離があった。それらをごまかすために相手を悪党と決めつけて吹聴するという卑劣な手段も皆、プロパガンダの巧みなナチスのやったことと同じ。そして、それを薄々知りながら、世界は黙っていたことも。(最初、報告を受けたルーズベルトは強制収容所の話を捏造として一蹴した)

なぜホロコーストが起こっているときに、世界は沈黙していたのか今の状況を見ると本当によくわかる。ナチスを恐れていたように、イスラエルに他の国々が気兼ねし、そして周囲に歩調を合わせ、見て見ぬふりか「無関心」であるほうが、人は生きやすいということが。

・・昔の巨匠は「受難」について間違っていなかった
  -中略―
  農夫はイカロスが失墜して悲鳴を上げたのが聞こえたかもしれない
  だが、彼にとってそんなことはどうでもいいのだ・・
                           「美術館」オーデン

ブリューゲルの「失墜するイカロス」を見て書かれたオーデンの詩。私たちは、みんなこの絵に出てくる(無関心な)農夫なのかもしれない,他人の痛みと無関係にのんきな農夫。しかも、今、空から墜ちてくるのは、ブリューゲルの絵のように一人のイカロスではなく、無数の血だらけの小さな子供や赤ん坊たちなのである。

ベツレヘムもエルサレムも聖地どころか、パレスチナ人大虐殺の地となってしまった。イスラエルはパレスチナのみならず自身をも滅ぼしているとしか思えない。

通常は歴史を遡ると中立的な立場になることが多いけど、イスラエル・パレスチナの場合、まず75年にわたる想像以上に過酷なアパルトヘイトがある。それがどんなにひどいものだったのか、書物を読んで知れば知るほど、とても中立な立場はとれなくなる。そして、それを裏付けるかのように、ツイッターで流れてくる衝撃的な映像。イスラエル兵に目隠しをされ、まさに「人間の盾」とされている少年。サッカーをして遊んでいただけで、いきなり銃で撃たれて倒れる少年、狙撃の練習にパレスチナの子供をフェンス越しに撃ち殺すイスラエル兵・・ほとんどが、面白がってパレスチナの子供をいじめている、あるいは面白がって殺しているという吐き気を催すような映像ばかり・・そうした残虐を行う人間にイスラエル兵士が多いのは、よほど抑圧の大きいヒエラルキー社会なのかもしれない。パレスチナでは10月7日以前、いやもっと前からこうしたことは日常茶飯事だったのだ、と衝撃を受ける。そして、多くのパレスチナ人は訴えることもできずに泣き寝入りするしかなかったのだ。ハマスが人質を取ったというが、イスラエルが拘束しているパレスチナ人は1500人。(子供が多い)路上でもこれだけひどい残虐な行為、遊び半分の殺しをするくらいだから、果たしてどんなに恐ろしい拷問があることか・・

パレスチナ人を嘲笑し、差別する過激なシオニストと、韓国に対するヘイトスピーチを平気で行う日本のネット右翼の人々には共通するものがある。ゆがんだ愛国心と他国を見下してプライドを維持する幼稚なメンタリティ、そして厚顔無恥。1948年以来、イスラエル政府がパレスチナ人を虐殺、追放したことを見て見ぬふりし、正当化するために逆に相手にテロリストのレッテルを貼って責めるのは、南京大虐殺や朝鮮人慰安婦問題を否定してし、逆に相手が悪いとしてなじる「美しい日本」のネット右翼のやり方にそっくり。自分の都合の悪いところは見ようともせず、他人の痛みは平気で踏みにじり、悪のレッテルを貼りつけて吹聴するので、差別しているという罪悪感すらないのかもしれない。意図的に密入国者と女性タレントを決めつけ侮辱する区会議員、差別発言して堂々と開き直る自民党議員。両方とも女性とは・・他人を汚い言葉で侮辱することがストレス発散になっている人びと。

アメリカの大学では、親パレスチナのデモをした学生は就職できないようにしたり、仕事を首になったりしているらしいが、言論の自由とは、汚い差別発言は許されて、イスラエル政府批判は許さないものだったとは・・(反シオニズム=反ユダヤ)と、アメリカ議会で決議されたそうだが、実に姑息なやり方をする。イスラエル政府批判=反ユダヤとすることで、今のイスラエル政府に反対するユダヤ人や、他の国のシオニズム批判に対する口封じと脅しだろう。何度も書くが、反シオニズム≠反ユダヤなのである。

かつて、故・安倍総理とネタニヤフ首相が握手しているとき、二人の傲慢そうな笑顔に嫌な予感がしたが、一人は日本をダメにし(今、安部派は裏金問題で化けの皮がはがされているが)、一人はパレスチナを滅ぼそうとしている、そして、道義を踏みにじっても、品位を落としても恥じないほど、自己防衛心の強い拝金主義者であるところも二人は似ている。もちろん、その取り巻き・支持者も同じ穴のムジナで、今、イスラエルや日本、世界中で失われつつあるもの、それは人としての道義心と品性だと思う。

時折流れるツイッターでは、瓦礫に埋もれて動けなくなったロバを賢明に救助しようとしたり、配給された貴重な水を犬とわけあったり、鳩に食事を分ける子供たち、生き残った猫たちに餌をあげるジャーナリスト(彼はその後殺された)、そうした窮状にあるパレスチナの人々の、お互いに助け合ったり、動物を助けている映像が流れてくる。自分たちも水が不足し飢えていていつ死ぬかわからない状況なのに、他を思いやることを忘れない、パレスチナの人々の繊細さとやさしさ。パレスチナのドキュメンタリーを見ても、自分も大変なのに、まず他人を助けるために身体が動いてしまうような人が多い。「人権」から疎外されたような人々が逆に真の「人間らしさ」を見せるのは皮肉な話。一緒に空爆から逃れた犬を優しくいたわるパレスチナの少年の輝くような笑顔・・泣き叫ぶ母親・・悲しみと怒りの表情で天を仰ぐパレスチナの男・・人は真実であるときが最も人間の崇高さを見せるのかもしれない。パレスチナ人を見殺しにすることは、私たちが失いかけている人間のやさしさ、窮状にあっても道義を失わない品性、そうした人間の美しさを土足で踏みにじっているような気持ちになる。

・・鳥にはアイデンティティがない、そうだろ。国境も規則も持たない・・鳥は何を持つ?そう、自由だ、自由は最も素晴らしいものだ・・鳥が仲間を大切にするように、自由であるためには、他の人を尊重して大切にすることだ・・・
             ~ジアド・カダシュ先生(パレスチナの男子校の教師)
           『これはわたしの土地』2014仏制作ドキュメンタリー映画

どんなにパレスチナ人が閉じ込められて不自由か、どんなに過酷な日々を生き抜いてきたことか。もちろん、パレスチナの人々の「自由」と私たちの「自由」は違う。パレスチナの人々にとっての「不自由」は物理的なものであり、人間の尊厳を奪われた占領下の差別と不自由であるが、世界のあちこちで、政治力による圧力がかかり、ファシズムの足音が聞こえてくる今、この言葉は心に響く。偏見に凝り固まった不自由な心のほうがむしろ問題なのである。(いまだにハマス=テロリストを撲滅せよと騒ぐ人など)

今、私たちがパレスチナの人々を救うのではなく、むしろ我々のほうが彼らから学んでいるんじゃないかと思う。

カダシュ先生と教え子たちが、どうか今も無事でいますように・・また、『ガザの救急車』は2014年の空爆を記録したドキュメンタリー映画で、まるで悪夢のような映画だが、まさに今はこの数倍もひどい状況なのだと思うと言葉を失う。

※「アジアンドキュメンタリー」で優れたイスラエル・パレスチナのドキュメンタリー映画を見ることができます。

10月7日以後、あまりに衝撃的なニュースが毎日連続しているが、どうかもうこれ以上、パレスチナ人を殺さないでほしい。そして、エジプトに逃亡中に馬小屋で生まれたイエス・キリストのように、難を逃れた赤ちゃんの中から、暴力のない、新しい世界を再建するような、素晴らしい若者が出てくることを祈るばかりである。
 

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