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住宅団地 記憶と再生 №26 [雑木林の四季]

16・森の団地オンケルトムス・ヒュッテWhldsiedlung Onkel Tbms Hdtte(Zehlendorf.  Argentinische Alle,Onkel-Tom-Str.,Riemisterstr.14169 Berlin) 2

       国立市富士見台団地地自治会長  多和田栄治

 団地のあるツェーレンドルフは1900年ころからベルリンの別荘地、高級住宅地として知られるようになり、またグリューネワルトをひかえ行楽地としても開発がはじまっていた。この地で早くから行楽客に人気のあったビア・レストランがその名を、当時ドイツ語に訳されてよく読まれたストウの小説『アンクル・トムの小屋』からとった。
 マルテイン・ヴァグナーが1925年に馬蹄形団地の建設に着手し、次なる団地を探しにかかっていたとき、ツェーレンドルフの企業家アドルフ・ゾンノーフェルトからグリューネワルトのはずれの所有地の住宅開発をもちかけられ、26年にゲハーグ社が34.4ヘクタールの土地を取得した。ヴァグナーがブルーノ・タウトに託して団地設計にはいるや、市区当局がこれに干渉してきた。中流階級の住宅地に低所得者向けの集合住宅は許せない、という。市区がめざしたのは、税金が払える階級のための、高級住宅地にふさわしい三角屋根の絵のような邸宅であった。ヴァグナーとタウトたちのねばり強い戦いとヴァイマル憲法155条の支えが功を奏し、ツェーレンドルフの団地建設がはじまった。建築主はゲハーグ社、設計はタウトのはか、第1工期(1926~27年)のみフーゴ・ヘリンクとオットー・ルドルフ・ザルヴイスベルクが加わった。2人は南地区の連続戸別住宅を担当した。屋外設計はレベレヒト・ミッゲとマルタ・ヴイリングス=ゲーレ。工期は7期にわたり1931年に完成した。総戸数は1,915戸(アパート型式1,105戸、棟割り型式810戸)であり、うちタウトが設計したのは1,591戸(1,105戸と486戸)である。建物面積7.4ヘクタールにたいし庭と緑地は27ヘクタールと広く、まさに「森の団地」の名にふさわしく、団地名は地下鉄の駅名とともに人気のビア・レストランにあやかった。地下鉄の延伸と駅の開設は計画どおり1929年に実現し、33年にはザルヴイスベルクが駅中商店街を大改装した。
 団地建設の着手から完成までのあいだの市区当局と建築家たちの干渉、これとの戦いの経過についてタウトは、日本に亡命してきて著わした『ジードルンク覚え書』にくわしく書いている。このころすでに平屋根反対論は克服してきていたが、「しかしツェーレンドルフは特別な例外であった。美しい森の住宅区を建設しなければならなかった。この事実が世間に知れると、多くのツェーレンドルフの人びとは大真面目に泣いたそうである。この綺麗なな森にぞっとするような新しがりな平屋根の箱をおくとは、と。それなら、屋根が山形でも平形でも、同じように森と自然を楽しむことができるということを一般の人や役所の人に証明できたのか。その森がなぜ美しいかというと、それは数列の美しい大きな白樺がいくらか平凡な松林のなかに縫うていたからである。そこでわれわれは一本の白樺も伐らないような計画を立てた。この計画を役所に申しでると、この美しい白樺の列は全部伐り払えという。こうなると今度はわれわれ自身が森の美を保護する番になる。」
 「ところが1929年になると、ツェーレンドルフにおいて屋根論争がふたたび蒸し返された」一団地に隣接する地で、のちにナチスを支持する保守派の住宅会社GAGFAHが17名の建築家を糾合して博覧会をひらき、トンガリ屋根だけがみな同じの住宅団地をつくり、反「ノイエス・バウエン」のプロパガンダをはじめたことをさしている。「ツェーレンドルフ屋根戦争」はヴァイマル末期からナチス政権にいたる政治闘争の表われでもあった。平屋根形式はその後も普及していったが、「1930年および31年は、ジードルング建築の波も退潮の時期にあった」とタウトは書いている(タウト全集第5巻、283~286ページ)。
 きびしい財政条件のもとで、労働者・低所得者層向けの住宅を短期間のうちに大量に、しかも「戸外住空間」のコンセプトをもとに、いかに安価かつ美的に建設するか。これをやりぬくために、住宅設計や資金づくりはもとより、都市計画や交通行政との折衝など、どれだけの戦いと連携、計画の練り上げと説得を要したかは計り知れない。私的所有と戸建てを基本とする伝統的な観念から公共的所有の集合住宅への転換を求めつつ、たとえば三角屋根を平屋根にかえることへの抵抗、建物の彩色、配色へ異論、団地内の道路の幅員や強度、舗装、原生の樹木の伐採についての行政の干渉をはねのけてい 国難な道のりについてタウトは語っている。
 ただし、とくにオンケルトムス・ヒュッテ団地についていえば、「戸外住空間」を実現し、住生活近代化の試みを重ねてその方向性を示唆することはできたが、「労働者・低所得者向け住宅」の供給には程遠かったと言わざるをえない。入居者は官吏や職員といった中間層が中心で、タウト自身「中産階級への住宅」に終わったことは認めている。同時に「ジードルング建設の終焉」が近いことも感じとっていた。
 1932年にタウトはモスクワに仕事にでかけ、翌年ベルリンにもどるが、トトラー政権下となり、社会主義者ないしはシンパであったタウトもヴァグナ-も亡命をよぎなくされ、タウトは日本に逃れ、ヴァグナーはトルコに亡命した。タウトが1935年に建築学会の依頼をうけ、幻燈映写つきでおこなった講演記録『ジードルングス・バウ(集落計画)』、日本滞在中33年と36年に書いた『ジードルング覚え書』はタウト全集第5巻で読むことができる。
 オンケルトムス・ヒュッテ団地は、第2次大戦でほとんど戦禍をうけていない。戦後この地区はアメリカ軍の占領下にあって、団地の多くの住宅が、もとの住民は転居させられ、アメリカ軍関係者の宿舎になった(北村昌史論文『二十世紀の都市と住宅』中野陸生編、2015年山川出版社、239ページ)。わたしが最初に訪ねたのは1990年だから築後60年たっているが、70年代未から80年代にかけて総点検・修復がおこなわれてきているから、比較的原型に近い状態で見たことになる。ベルリンの記念建造物に指定され、ユネスコの世界遺産登録をもめざしたろうが、2008年の決定からは外れている。中流家庭が住み、専用庭も広いことから、ましてアメリカ人が住んだとあっては、室内外の改造、ペンキの塗り替えばかりか、テラス、物置きの増設などをして、世界遺産登録の条件である「原型に復す」状態にはなかったであろう。しかもその間、ゲバーク社が管理する賃貸住宅は民営化され、ドイツ住宅不動産業界2位のドイチェ・ヴオーネン社の所有に変わり、持ち家として売却されている。「買い取りができない住人は引っ越しを迫られている」(田中辰明『ブルーノ・タウト』2012年中公新書、45ページ)。公的保護と規制をはずされ個人所有になると、建物の様態どころか敷地用途さえも変貌をとげることになろう。わたしの「理想の原点」はどうなっていくか、たいへん気になる。

『住宅団地 記憶と再生』 東信堂
 

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