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地球千鳥足Ⅱ №37 [雑木林の四季]

料理と亡き母

      小川地球村塾村長  小川律昭

 半年以上も別居していると、自分で料理して食べるということが重要な行事になってくる。今までは与えられるものを無意識に食べていたのだから、料理人、つまりワイフが苦心していた気持ちなどわかっていなかった。時々形を変えて昨日のものが食卓に並んだので、残り物を食べさせられているという印象さえ持った。味より経済でいただく食事と理解していた。
 四十代の単身赴任の頃――そう長くはなかったが――は最初は自炊したが半年もすると嫌になって半分以上外食になってしまっていた。自炊だって簡単なフライパン妙めで作るものが多く、煮物や手の込んだ料理などしたことがなく、する意志もなかった。母親から食べさせてもらったものを思い出して作ったりした。

 自炊してみると、料理って何だろうと思う。食べさせる人がいるから作るものではないか。家庭もレストランもそうだ。自分だけで食べるのは何となく面倒だし、手間暇かけることなくィンスタント食品で間に合わせたくなる。今は電子レンジという重宝なものがあるのだから。
 趣味で料理を楽しんでいる人もいるのだろうが、男性の場合家庭で食べさせてもらっている限り作りたくないのが本音だろう。ところが私は今はやらざるをえない。最初の頃は妙める、ゆでる、焼く、チーン、の単純な料理であったが、繰り返しのメニューには飽きてきた。そこで食べさせる人がいなくったって、暇だし、自分のためにでも作ることにした。が、料理の本を繙(ひもと)く気分にまではいかず、煮ることから始めた。これは下準備に手間がかかる。魚の場合はイカ以外は切り身を使うから時間もかからないが。ワインと生妻を入れることでまあまあの味になることがわかった。調味料は計ったりしない。適当に使う。煮付けものはすべて味だしのため肉類を入れて作ることにした。昔は肉がなかったので母は前もって油で妙めてから煮込んでいたようだ。ゆでものは胡麻、ナマものは酢を使って調理するようになった。いずれも子供の噴、母親の作るのを見ていたから出来るのだろう。

 母親に可愛がられてずっとくっつきまわっていた。針仕事をする母のそばでいつも針のミミへ糸を通してやった。「おまえは女の子に生まれりやよかったな」と、よく言われたことを思い出す。この優しい母も、茶碗を床に落とすとこつぴどく叱った。そのくせ自分が落とした時は黙っていたこと、子供心によく見ていた。私たちは当時としては珍しく、靴を履いてテーブルで食事をした。アメリカ帰りの父が止まり木みたいな椅子を作ってくれていた。床はコンクリートだったから子供たちの手が滑って皿が床に落ちるとガチャンで泣き別れだったのだ。同じアヤコという名のワイフが私の失敗には目くじらをたて、自分の失敗には沈黙するが、その度に私は今は亡き母と子供の頃の食事テーブルを思い出す。

 母親は天ぷらもよく作っていたが、自分はまだだ。当時は油は注ぎ足して使っており、酸化などの知識はなかったようだ。油の粘度が目安だったのか。重曹を使っていたがその目的はわからない。料理は母に教わったような気がするが、ただ見ていただけでなく質問もしていた。あの頃のご馳走といえば鶏肉のカレーライス、とろろ芋、あご(飛び魚)のだんご煮、等ではなかったろうか。母は正月、鶏のガラでスープをとってそれを雑煮や煮物に使っていたが、その味は今でも忘れられない。米もかまどで炊いていたことを覚えている。美味しい材料のない中で、あるものだけを使って調理する母親の気持ちが、七十歳の今伝わってきたのは不思議にも懐かしくも思うが、これが別居の功徳というものだろう。
                         (二〇〇二年三月)

『万年青年のための予防医学』 文芸社


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