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浅草風土記 №16 [文芸美術の森]

続吉原附近 1

       作家・俳人 久保田万太郎

                 一

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  いつか吾妻へ筑波根の
  かのもこのもをみやこどり
  いざ言問わん恵方さえ
  よろず吉原山谷堀

とは清元の「梅の春」 の文句である。

   楢まつの葉のおちそめて
   夕暮しろき待乳山
     時雨しぐれに囁く鴫の
     声もこおるや、干潟道
     衣紋坂越えて、鐘の音
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 とは長唄の 「初しぐれ」 の文句である。
 そんなものを持って来なくっても、山谷から橋場今戸、待乳山、そうした隅田川沿岸の諸景の嘗て「吉原」と切っても切れない関係にあったことはだれでも知っている。「吉原」を描くのにそのあたりから出立するのも一つの方法である。……と思ったわたしは ――そこもやっぱり子供の時分からの古馴染の、つまりは心やすだてに、いままでちょろッかにみ来った町々をいま改めて、はッきりみ直そうとしたわたしは、十二月末のある午後、根岸から出る小さな乗合自動車を言問橋(ことといばし)の袂で下りると同時に、おや?と、おもわず、そこに眼をみ張ったものである。―― むかしからその位置にある聖天町の交番、それを真ん中に、山谷のほうへ、今戸橋のほうへ、二夕股にわかれた道の、後のほうのものの信じられないほど、野広くなったことにわたしは驚いたのである。―― ということは、以前の、「河岸」に沿った「表通り」と「裏通り」と、二夕筋、そこにならんでいた往来の、その境界をなしていた家つづき ―― はえないその一ト側のあとなく締麗に取ヅ払われた ―― とばかりじゃないが、そういえば手ッとり早く感じが出る……と一しょにいままで 「裏通り」の角だった材木屋の「松幾」が、店の向きをかえて 「表通り」の角になり、同時にその整然と板材を立てかけたり簡素にがッしりした腰障子を閉てたりした、きわめて古風な建物をかぎりに、あとは「河岸」まで、つつぬけに、ガランと、ほれぼれとそこに一めんの空地が拡っているのである。―― そうしてそこに、立並んださびしい冬木のかげに、隅田川の水がまのあたりしらじらと、鈍く光りつつながれているのである……
 いつかは出来る「隅田公園」の一部である。
「此奴アいい」
 おや? と、おもわずそう眼をみ張ったつぎの瞬間、わたしはすぐ立直って自分にいった。なぜならそれは、いままでの「浅草」に決してみることの出来なかった明るい光景だったから。いままでの「古い浅草」に、決して求めることの出来なかった快活な風情だったから。―― たとえば広重でもなく、北斎でもない清親の「味」 ―― そうだ、そういえばいい……
 おもい出すのは去年〔昭和二年〕の夏のことである、東京日々の「大東京繁昌記」のためにわたしは「雷門以」を書くことにした。その必要のため、二三人の連れと一しょに、仲見世、馬道、猿若町、そうした場所の近状をつぶさにみてあるいたあと、わたしは、待乳山の石段を上った。そうしてすぐ隅田川から向島へかけての馴染のふかい眺めに眼を放った。たちまち、わたしと、わたしの連れとはひとしく暗然とした。なぜならそこに遠く横たわったのは、ところッ剥げのした緑の土手である、そのうえを絶えず馳せちがう自動車である、林立する煙突である、三囲(みめぐり)の華表(とりい)を圧して巍然(ぎぜん)と聳(そび)えたコンクリートの建物である、――六月の曇った空のいろを浮べた隅田川の嬾(ものう)いながれが一層その眺めを荒廃したものにみせていた……
 「それにしてもあのコンクリートの建物は何だろう?」
 わたしは半ば自分にいうようにいった。
 「訊いて釆ましょぅ」
 そういうと一しょに、本堂の芝のすこしの石段を、むかしの額堂のほうへ下りて行った連れの一人は、すぐまた返って来ていった。
 「小梅小学校だそうです」
 「小梅小学校7」
 わたしたちは改めてその建物をみ直した。――そうすることによって、地震後まだ一度も吾妻橋をわたらない自分を、はッきりわたしはおもい返した。
 「乱暴なものをこしらえたもんですねえ」
 わたしはそういわざるをえなかった。
 「全く……」」
 わたしの連れはひとしくまたそういった。
 が、やがてそこを離れ、裏の石段を瓦町のほうへ下りようとしたとき、急にそのとき思いもよらない「眺め」がわたしたちのまえに展けた。――わたしたちは、すくなくもわたしは、下りかけた石段の中途に、おもわず凝立したものである。
 そこからは隅田川が一ト眼だった。……ということは、河岸に、すぐその下の河岸に、わたしの眼を遮るただ一けんの移動バラックさえなかった。雑草の茂るにまかせた広い空地が拡っていた。―― ということは、また、そこから、小梅小学校が一ト眼だった……
 青い革、そのかげをながれる河の水、その水にのぞんだ灰白色の建物。―― 時間にしてその五分まえ「向島」の風情をことごとく否定していたその「建物」が、「向島」のいのちを無惨にうばっていたその建物が、いかにそこに力強く、美しく、寂しく生きていたことだろう。―― 実に、一抹の、近代的憂苦の影をさえその「眺め」はやどしていた……
 むしろ茫然とわたしはそうした「隅田川」の一部をみふけったのである。
 ……その驚きである、そのよろこびである。―― その驚き、そのよろこびに再びわたしは出会したのである。

[浅草風土記』 中公文庫



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