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浅草風土記 №15 [文芸美術の森]

吉原附近 8

        作家・俳人  久保田万太郎

          八 (2)

 石橋の田村や、上清、ともに「たけくらべ」の中に出て来るその界隈の店舗の名まえである。すなわちあの「春は桜の賑ひよりかけて」のくだりの「……赤蜻蛉田圃に乱るれば横堀に鶉なく頃も近づきぬ、朝夕の秋風身にしみ渡りて上清が店の蚊遣番懐炉灰に座をゆづり、石橋の田村やが粉挽く臼の音さびしく」とあるその「上清」と「田村や」である。
――くわしくいえば田村やは龍泉寺町百四十八番地、上清はおなじく百四十四番地……いまのその時計屋と着籠屋との占めている位置からいってわたしははッきりそういうことが出来た。――ということは田村やと上清との所在のしかくあきらかになったことによって、先生の記憶の「真っ直の往来の左側」ということのいよいよたしかになったとともに、いえばその十番違いの 「三百六十八」 というのがほんとうの番地で、延いてその伊勢屋といううちは、肴屋の並び四五けんだけを同番地とすれば、まさしくそれは日記「塵の中」に「左隣りの酒屋なりければ……」とあるその 左隣りの酒屋」である。急にすべてがばたばたと解決した。すなわちその伊勢屋の右隣の「鈴音」という乾物屋にわたしたちは長い間の念願の「たけくらべ」の作者の住んだあとをみ出すことが出来たのである。
 ……堅光地蔵のまえを去ったあと、一年ぶりでわたしはその龍泉寺町三百六十八番地を訪問したのである。あとになってみれば、そんないまさらのような騒ぎをしなくっても、その真筆版『たけくらべ』よりずっともっとまえに出ている『一葉全集』後編の跋をみればちゃんとそう「三百六十八番地」になっているのである。そればかりでなく、もっとよく此方に下読が出来ていれば、おなじその 「春は桜の賑ひよりかけて」のくだりの「……つゞいて秋の新仁和賀には十分間に車の飛ぶこと此通りのみにて七十五輌と数へしも」とある描写の、日記「塵の中」に「一昨日の夜我が門通る車の数をかぞへしに十分間に七十五輌成けり、これをもっておしはかれば一時間には五百輔も通るべし、吉原かくて知るべし」とあるのから出ているのに徴しても、そのうちの表通りに面していたことはすぐ分ったわけなのである。下司(げす)の智慧はあとからで、いまとなってみれば、キマリのわるいことだらけである。
――そうしたことを思いながら、そのとき以来はじめて、久しぶりで、わたしは、とに角にその大きな瀬戸物屋をもったやや狭い往来をめがけてあるいたのである。――が、一年のうちに、わずか一年のうちにこれはまた何という変り方だろう! 去年まだ、わずかにその指さきだけしかみせていなかった「区画整理」が、一年のあいだに全くその手を拡げ切ったのである。――ということは、「やや狭い往来」の道幅は、旧に倍して決してもうそんな、去年のような「狭い」といった感じをかんじさせなくなった。そうして、そのわたしたちが三島神社のほうから入ってそのまえで自動車を止めた、あぐねつくして、ものは試しと改めてその番地を訊きにぶつかった角の交番は、そこもまた以前よりだだッ広く拡った電車通りのコバのそろった家並の間にそのかげを潜め、「田村や」のあとの時計やは、去年と同じ店つきをみせていても「上清」のあとの葛籠屋は、今年はもぅそこにその存在を消していた。1可懐しくその伊勢屋という酒屋の店の前を通りすがりに覗いたとき、去年それらの店の所在をわたしに教えてくれた其うちのおかみさんの、去年と同じ前垂形(まえだれなり)で、並んだ樽のまえに立ってぼんやり外をなかめているのをわたしはみ出した。
――田村やを知り上清をおぼえているその人に、この変りつくした町の光景……そういっても、そこは、わたしが覚えてからでさえ、いかにも廓の裏らしい感じの、暗い、陰気な、悒鬱(ゆうつ)な、そのくせどこか時雨気のしみじみした町だった……は果してどう感じられるだろう?――もし生きていれば、一葉も、明治五年の生れだから今年五十七の、ちょうどこのおかみさんぐらいになっているわけである……
 わたしは揚屋町裏の非常門につきあたって左へ曲った。そうしてまた江戸町裏の非常門のはずれを右へ切れた。――そここそ、わたしの、はじめて「たけくらべ」を読んだとき以来、「仲之町芸者が冴えたる腕に、君が情の仮寝の床にと何ならぬ一ふし」のあわれも深く三味線の音とともに落ちかかるように聞えて来る土手下の細道ときめている、わたしの大好きな道である。信如が「昨日も今日も時雨の空」に田町の姉のところへ長胴着をとどけに行ったのも、その道なら、「仮初の格子門、のぞけば鞍馬の石燈籠に萩の袖垣をらしう見えて、縁先に巻きたる簾のさまも」なつかしい大黒屋の寮の存在したのも、その往来のどこかの部分と、むかしからわたしは固くそう決めていたのである。
――またわたしにそう決めさせるに足る風情を、そのお歯ぐろ溝にそった、狭い、寂しい往来はもっていた。――二階三階のそそり立った廓の中の大きな建物と、その下に並んだしずかな生垣つづきの家々と……ことにそれが晴れた冬の午前ででもあると、日の光のいとど澄んだ中に山茶花のかげがやさしく匂って、飴屋のちゃるめらの音がどこにともなくうすら哀しく漂っていた。そうして、そのあたりうそのように人通りがなかった ――しかも、一卜足土手へでれば、眼もあげられない「浮世」のゆきかいが、はげしくそこに織り出されていたのである……
 が、それも震災ずっとまえまでの光景だった。お歯ぐろ溝がなくなり刎ねはしがなくなって、そこの風情のあらましは消えた。-別ねはしの名残をとどめた小刻みの段々にいたっては、汐の退いたあとのどんな桟橋でも、これよりはわびしい感じを与えないであろう。
 ことに震災後……いいえ、震災後もしばしばわたしはその道を通った。通ってはひそかに返らぬむかしの光景を偲んだ。・…・だから何も、今日にかぎってのそうした惨めさではないのだが、それにしてもこの……何という、この荒廃の仕方だろう! うちつづいた煉瓦塀、そのかげに枯れた枝を力なく張った無花果、不細工にうちつけた窓の目かくし、捨車、そうしていまいった刎ねばしの名残をみせ間に合せの段々。それが吉原の外廓の一部である。……生垣のつづいた嘗ての片っ方の側はほとんどまだ空地のままの、おりからの夕影に、遠くただ灰いろに拡った広さの末をつぎの往来に立並んだ小さな家々の燈火のいろがさむざむと霞んでいるだけだった……
 先刻よりずっと濃くなった月のかげを仰ぎつつ、土手のほうへとわたしはあるいた。
     「昭和四年)

『浅草風土記』 中公文庫



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