SSブログ

西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №118 [文芸美術の森]

         明治開化の浮世絵師 小林清親
           美術ジャーナリスト 斎藤陽一

          第1回 はじめに~清親登場~

≪詩情豊かな光線画≫

 壮年期の小林清親の写真(左)が残っている。撮影時期や場所は不詳ですが、これを撮影したのは明治・写真家の草分け下岡蓮杖とも言われています。
118-1.jpg 骨格はがっしりとしていて、分厚い唇に頑丈そうな頤を持ち、壮士風な風貌をしている。しかし、眼差しは意外に優しい。

 清親の娘・歌津(かつ)は、のちに「父の思い出」を書き残しましたが、それによると、清親は「身長6尺2寸(186cm)もあって、手足の長い、ひどく頑丈な男」だったという。当時としては、相当な大男です。にもかかわらず「それには似合わぬほど、温厚で優しい人でもあった」と歌津は書いている。

 明治維新になって、清親が生活に困窮していた時期に、一見強そうな外見を買われて「剣術ショー」にスカウトされたり、侠客の用心棒になったりしたこともあったという。
 しかし実際の清親は、幼いころから何よりも絵筆を持つことが好きな、無口で心やさしい人だったらしい。

 小林清親は元武士だった。それも、江戸幕府・徳川将軍に仕える幕臣でしたが、幕末の動乱から明治維新に至る激動の波に翻弄されながら、近代化が急速に進む明治開化期の東京で、色刷りの浮世絵、すなわち「錦絵」を描く絵師となりました。
 しかし、清親が描いた光景は、当時流行していた「錦絵」とはおよそ様相の異なる独自の絵画世界でした。

 明治開化期に流行っていた「錦絵」というのは、例えば下図のような浮世絵でした。

118-2.jpg

 当時、流行していた錦絵は、このように、近代化・洋風化した事物を題材とし、輸入物の安い顔料を使って「赤」や「紫」の調子の強い絵となっていたため、「開化絵」とか「横浜絵」、あるいは「赤絵」などと呼ばれました。
 それらは、必ずしも当時の東京の現実を描いたものではなく、開化期を迎えて新奇なものを求める人々の需要に応えて、できるだけ多くの西洋的モチーフを描き込み、近代都市の輝かしい姿を示したものでした。
118-3.jpg

 小林清親が絵師として最初の錦絵を刊行したのは、明治9年、29歳のとき。まことに遅いデビューでしたが、清親も初めは、このような伝統的な浮世絵様式によって「文明開化の光景」を描きました。(右図)
 
 ところが、その半年後に、清親は忽然と独自性を発揮します。
 それ以降の小林清親は、江戸から東京へと移りゆく風景を主題にしながらも、「西洋画」
のさまざまな技法を取り入れ、朝から夜までの一日の時刻の変化、春から冬までの季節の移ろい、さらには、晴、曇、雨、雪といった気象の違いなどを「光の変化」としてとらえ、光と影の対比にゆらめく東京の情景を、詩情豊かに表現する画風に変貌したのです。(下図)

 このような小林清親の絵は、当時「光線画」と呼ばれ、新趣向の浮世絵として大いに人気を博しました。

118-4.jpg


≪小林清親の生い立ち≫

 「移ろいゆく光の変化」を繊細にとらえた清親の「光線画」には、彼が幼少年時代を過ごした土地や環境が色濃く反映しているように思います。絵師になるまでの清親の生い立ちに触れておきましょう。

 小林清親は幕末の弘化4年(1847年)に生れました。明治維新の21年前のこと。生まれたところは、隅田川に面する江戸・本所。近くには幕府の御蔵屋敷があった。
隅田川沿いの御蔵屋敷には、各地から江戸に年貢米が送られてきた。清親の父は、幕府・御蔵奉行配下の小揚頭。年貢米の荷揚げに従事する人足たちを指揮する現場監督のような役職でした。

 清親の幼名は勝之助。勝之助少年が生まれ育った本所界隈は、隅田川の川べりであり、幼い頃から馴染んでいた隅田川とその両岸に連なる江戸下町の光景こそが、絵師・小林清親の原風景になりました。

 下図は、小林清親が明治13年(33歳)に描いた「本所御蔵橋」。このあたりは、清親が生まれところであり、幼いころから慣れ親しんだ場所です。

118-5.jpg
 ほとんど夕方に近い午後の光は飴色を帯びている。
 橋の欄干にもたれかかって隅田川を眺める二人の女性。西に沈んでいく陽光がきらめく川面や、シルエットとなった対岸の家並みを眺めているのでしょう。
空にはまだ昼の青さが残っており、雲はゆっくりと動いている。静かで美しい描写です。おそらく少年時代の清親も、このようにして夕日に照り映える隅田川を眺めていたにちがいない。
 刻々と変化する光を反映して、川は、朝、昼、夕とさまざまな表情を見せる。そんな少年時代の環境が、清親の「光」に対する繊細な感受性を育んだのではないでしょうか。

 文久2年、勝之助15歳の時に父が死去、少年ながら家督を継ぎ、小林清親と改名する。

 慶応元年、18歳の清親は、幕臣として14代将軍・徳川家茂一行に従って京に上りましたが、家茂は大坂城で死去、徳川慶喜が15代将軍となります。清親はそのまま大坂城に3年ほど滞在、そこで徳川慶喜による「大政奉還」を迎える。清親20歳の時です。

 これにより、徳川政権は終焉を迎えたが、戦乱は続く。
 慶応4年1月には「鳥羽伏見の戦い」が起こり、清親も旧幕府軍の一員として参戦しますが、薩長連合軍に敗北し、清親らは陸路で江戸に逃げ帰りました。

118-6.jpg

 その年の4月に江戸は「無血開城」。しかし、旧幕府内の主戦派である「彰義隊」は上野の山に立てこもって新政府軍と戦い、あっけなく敗北。
 清親は彰義隊には加わりませんでしたが、上司の命令により、人足の扮装をして上野に偵察に行き、近くに砲弾がさく裂、ほうほうのていで逃げ帰っています。
 そして、この年の7月には、「江戸」は「東京」と改称される。8月には明治天皇が即位し、元号が「明治」に改まる。小林清親21歳のときでした。まことに目まぐるしい展開で、幕末は終わりを告げた。

 禄を失った清親は、暮らしを立てるあてもなく母を連れて静岡に移り、そこで妻を迎えるが、生活の困窮は続く。
 6年後の明治7年(1874年)、27歳の清親は母を連れて東京に戻ります。最初の妻とは離婚しました。
 6年ぶりに足を踏み入れた東京は、著しい変貌を遂げていました。おそらく若き清親は、徳川政権を倒した薩長中心の明治新政府に複雑な思いを抱きつつも、文明開化の様相には目を見張ったことでしょう。そこから清親の画家人生が始まりました。

 次回からは、小林清親のいわゆる「光線画」の数々を取り上げて、その絵画世界を鑑賞していきます。
(次号に続く)
 


nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。