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武州砂川天主堂 №37 [文芸美術の森]

十一月十八日
 源五右衛門は、一過の書面を開いた。
 過日御間合及ビ候桑苗ノ義追々騰貴候趣ニテ本年ハ見合ス方可然様御勧告ノ次第候処左記ノ分ハ是非トモ買入度旨申出候間千万御手数トハ存候得共至急御回送ノ運ニ御取計相成度
      
 かじつおといあわせにおよビそラろうくわなえノぎおいおいとうきしそうろおもむきニテほんねんみあわスかたしかるべきようこかんこくノしだいそうろうところさきノぶんハぜひトモかいいれたきむねもうしいでそうろうあいだせんばんおてすうトハぞんしそうらえともしきゆうごかいそうノはこびニおとりはからいにあいなりたく
 一、桑苗、魯桑、高助、市平、六郎、赤木、十文字、柳田
 一、右取混ゼテ八千百七十八本
  明治二十年十一月十五日
                           静岡県駿東郡役所
                           郡長 竹内寿貞
      砂川玄五右衛門殿
      
 その要旨は、駿東郡が砂川の桑苗を買い求めたいということだ。先頃、駿東郡から桑苗購入を打診する書状が届いた。それにたいして、桑苗の相場が高値を呼んでいるから、、購入されるのを見送られたらどうか返事しておいた。その返事に対して、やはり買い求めることにしたのでよろしくという書状なのだ。
 源五右衛門は、書状を読み終えて、今一度、書面を見返す。文面にあるのは桑苗購入のことだけだ。それ以外のことは書かれていない。差出人の氏名を凝視する。差出人は「竹内寿貞」。忘れもしない名前だ。同姓同名の違う人物であるわけがないと思う。
 寿貞が砂川村から立ち去ったのは明治十年、西南戦争に警視庁の警視隊に応募したのだ。それ以後、消息が不明になっていたが、駿東郡の郡長として落ち着いているのだ。その間、さまざまなことがあったのだろうと推測する。寿貞が自身のことを何一つ書いていないのに、苦労を重ねたのだろうなと思う。
 寿貞は、砂川村で桑苗の栽培をよく知っている。だからこそ、名指しで注文してきたのだ。そう考えると、この注文は、ご無沙汰の詫びと、源五右衛門への親愛の情の表れと受け取れる。
 源五右衛門は、寿貞の心遣いをうれしく受け取ることにした。砂川を去ってからの十年の経緯を訪ねるのも止そうと思った。
 駿東邦へ、注文された桑苗を取り急ぎ送るように村長に言いつけた。
明治二十二年一月九日、駿東郡富士岡村神山。
 在日外国人には不動産の取得が認められていない。病院敷地の保全には、信頼できる日本人の共有地とし、そこが病院事業にのみ使われることを申しあわせをしておく必要がある。
 ジェルマンは、その人選を慎重に進めた。まず、信頼できる信徒から五人を選んだ。病院の医師を予定している金子周輔(かねこしゅうすけ)の了解を求めた。敷地の地主Mは、病院設立の際の恩人として仲間に入れて欲しいと要求したので都合七人の共有者がそろった。土地代金は三百五十円とされていたが、Mが三百九十八円とすることを要求した。その差額四十八円を寄付するから、自分は病院設立の際の「恩人」であると主張して、共有者の中に、割り込んだのだ。共有契約書にその経緯を書き込んだので、複雑な内容となっている。
 しかし、これによって、病院敷地の保全は完了した。
 共有地契約書
 右之地所駿東郡神山村M所有シ候処今般相談ノ上左ノ連名者之共有地トシテ永世貧癖者施療病院敷地ト定メソノ地代金トシテ三百九十八円Mへ相渡シ可申儀二決定仕候内金二百円ハ今回同人へ相渡候残金ノ内百五十円ハ本年十二月二言ヲ期㌢授受可致尚残金四十八円ハ右同人ヨリ該病院設立。付寄付トシテ差出可申約定ス然ル上ハ該地所ハ恕酎酎猷都軒数掛裂供スル者ニシテ共有者連名各自勝手ノ処置不相成ハ勿論総テ該病院利益二間セサル他ノ事柄こツぺカラザル筈之有又ハ共有者二於テハ仮令一名クリトモ該地所並二収益二間シ不服ノモノ有之トキハ病院以外ノ事二使用スぺカラザル義有之候
為後証共有地契約証連署如件
 みぎのじしょすんとうぐんこうやまむらMしょゆうそうろうところ今般相談のうえひだりノれんめいしゃのきょうゆうちトシテえいせいひんらいしゃせりょうびょういんしきちトさだメソノちだいきんトシテ三百九十円Mへあいわたスべきもうすぎニけっていつかまつりそうろううちきん二百円ハこんかいとうにんヘあいわたしそうろうざんきんノうち百五十円ハ本年十二月二十日をきシじゆじゆいたすぺくなおざんきん四十八円ハみぎどうにんヨリがいびょういんせつりつニつききふトシテさしだすもうすべくやくじょうスしかルうえハがいじしょハえいせいひんらいしゃせりょういんしほんニきょうスルものニシテきょうゆうしゃれん幼いかくじかってノしょちあいならざるはもちろんすべテがいびょういんりえきニかんセザルたノことがらニあツベカラザルはずこれありまたハきょラゆうしやニおいテハたとえいちめいタリトモがいじしょならぴニしゅうえきニかんシふふくノものこれあるときハびょういんいがいノことニしようスベカラザルぎこれありそうろう
ごしょうのためきょうゆうちけいやくしょうれんしょくだんのごとし
明治二十二年一月九日
  駿河国駿東郡沼津城内町ノ内片端町    伊藤裕清(
  同国同郡神山村                            M
  同国同郡グミ沢村                         金子周輔
  同国同郡川島田村                         折原義質
  同国同郡水土野新田                      林久四郎
  同国同郡同村                             伯部豊蔵
  同国同郡同村                             田代国平 

『武州砂川天主堂』 同時代社



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