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住宅団地 記憶と再生 №24 [雑木林の四季]

 15.大団地ジーメンスシュタットGroBsiedlung Siemensstadt(Ringsiedlung).
(Siemensstradt Goebelstr.,Jungfernheideweg u.a. 13627Berlin)

     国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

 ベルリンの世界遺産団地ではいちばん新しい、6番目の大団地ジーメンスシュタットを訪れたのは2010年1月7日である。この日は雪が舞い、積雪もかなりあって十分に見回れず心残りがあり、19年9月にも出かけた。
 団地はベルリンの北西部にあたり、シャルロッテンブルク区の北端、西のシュパンダウ区にまたがる。南にジーメンスの大工場群と労働者住宅が広がり、北に広大なユングフェルンバイデ公園をひかえる位置にある。
 環状線のユングフェルンバイデ駅をへてU7バーンのジーメンスダム駅で下車し、「世界遺産ジーメンスシュタット団地」の案内板をみて北にむかうとすぐ、左手に扇状にひらいた住棟群があり、木々の生い茂った築堤を抜けると大通りの両側に団地が広がっている.。築堤の北側には東西にいくらか曲線をえがいて延々と柵メートル以上もの住棟が城壁のようにつづき、その向うには、南北にまっすぐ延びる長さl㈱~150メートルの住棟が十数棟平行に並んでいる。
 団地の敷地面積はけ3ヘクタール、建潮間は1929~31年、総戸数は1,370戸である。住戸の規模は1室から3・5室までだが、2・5室が90%を占める。
 この団地についてまず気づくのは、どの住棟も長いこと、ブロックごとに建築様式に変化がみられたことである。建物は平屋根、4階建ての似たような型式だが、ブロックごとに住棟のレイアウト、階段室やバルコニー、窓枠のデザインなどに際立った変化があり、全体は白色、薄クリーム色を基調にしながらも、特徴的な部分には馳系の色彩を豊富に使い、見る目を楽しませてくれる。建物のデザイン、色彩の変化がみせる景観は、すべて画一的が特徴の団地に住むわたしには、とても印象的だった。
 住棟間は30メートル近く、広々とした芝生の庭に植樹、そして中央にはグリーン・センターが団地を南北に二分して幅50メートル、長さ250メートルにわたって延びる。かなりの大木が枝をひろげ、幼児の遊具類のほか、サッカーやバレーボール、卓球などして遊べる公園にもなっている。ブルーノ・タウトに代表される1920年代半ばまでにできた団地が、専用庭があって、あるいはごく身近に自然環境を享受できる設計に重きをおいていたとすれば、とくにこの団地は、共同的な、よりオープンな空間づくりを重視した設計といえようか。高木群を大きくまとめ、連続する緑の空間をつくる設計に特徴がみられる。団地の北側は、景観保護地区の広大な「民衆公園ユングフェルンバイデ」につづく。森林のなかの団地ともいえよう。
 かつては王室の狩猟場であったこの線の地帯の南に、19世紀半ばジーメンス会社Siemens AGが創業、工業地帯として発展し、まわりはごみごみした労働者住宅が密集していった。この地域に集合住宅を大量に建設するのがベルリン市の急務だった。設計者たちの念頭には、騒音と煤煙、労働の疲労から解放し、癒しと生活の安息をあたえる居住空間づくりへの想いがあったのだろう。地下鉄のすぐ北側を、いわゆるジーメンス鉄道がはしり、その北に土堤が築かれている。さきに「4榊メートル以上もの住棟が城壁のように」
とのべたその住棟は、南にひろがる工場や鉄道の騒音から、団地とその北の「乙女の原野(ユングフェルンバイデ)」を守る障壁の役割を想定して設計したものと思われる。
 団地建設を主導したのはベルリン市都市建設参事官マルテイン・ヴァグナ一、施主はプリームス社である。かれは設計者に「ノイエス・バウエン」のリーダーたち、ハンス・シャルーン、ヴァルター・グロピウス、フレット・フォルバート、オットー・バートニング、パオル・ルドルフ・へニンク、フーゴ・へリンクを起用した。その多くは「デア・リング(輪)」Der Ringグループのメンバーだったので、「リング団地」とも呼ばれている。しかしグロピウスとへリンク以外は住宅建設には未熟だったので、室内設計にマックス・メンゲリングパオゼンを雇った。キッチンと浴室は合理的に、家具調度は経済的にと請け負わせた。庭園設計はレベレヒト・ミッゲにゆだねた。ヴァグナ一にとって、まえに述べたようにヴァイセ・シュタット団地と同時に着手したベルリン最後の仕事であり、大都市における社会住宅の新しいスタイル創出に情熱を燃やし、気鋭の建築家をあつめ、かれらに担当地区をふりわけ、大いに多彩な個性を発揮させた。
 用地建設にあてられた敷地は広大ではあったが、すでにジーメンス会社がこの地域を支配し、貨物鉄道が敷かれ道路も開かれていて、地形上の制約もあっただろう。ヴアグナーは6人の設計者たちに環境、条件の異なるプロツクを指定し、各人がそれぞれその制約をのりこえ創意を生かして個性的な住宅群を競ってつくった。
 1929年から31年にかけて建設されたこの団地は当時、大規模な建築展示陽といわれ、国際的に評判になったという。建物はすべてほぼ同じ高さの中層で、長くのびた住棟ばかりであるが、そのデザインの多様性、住棟と道路の配置、緑の空間設計、道路沿いの植樹と樹木の多い広場に、これまでにない設計思想が生きており、20世紀の団地づくりの道標と評価された。
 ジーメンスはドイツ工業の中核のひとつ、第2次大戦で壊滅的打撃をうけ、周辺の住宅地はもちろんこの団地も空爆の被害にさらされた。その補修、再建はほぼ1956年には終わっていたが、原型に復するレベルの作業ではなかった。原型復元・保護の本格的な取り組みは、1982年に記念建造物保護の指定をうけて以後である。
 わたしが見ているのは21世紀の、いま在る団地である。90年をへた建物とは思えない真新しさ、輝きを放っている。いくらか厚化粧をしたにせよ、これが90年前に、ほぼこの姿で存在したと思うとき、感慨はひとしお深い。
 ここからシャルロッテンブルクの旧市街は近い。19世紀の建造物もまだ数多く見ることができる。第2次大戦時には空爆にあい、かなり修復され改造されて今日あるのだろうが、それでもけっこう往時が想像できる古さを残している。旧市内に残る20世紀はじめまでに建った傾斜屋根の建物、マンションを思い浮かべると、紹介してきた一連の団地をユネスコが「モダニズム」と名づけたその意味が丸ごと分かるような気がするし、なかでもジーメンスシュタット団地は、さらに第2次大戦後の集合住宅建設への先駆けと国際的にも評価されていると知り、なるほどと思った。
 団地の所有は2006年にドイチェ・ヴォーネン社に移り、今日にいたっている。

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