SSブログ

住宅団地 記憶と再生 №18 [雑木林の四季]

14.ヴァイセ・シュタツト団地 WeiBe Stadt(Reinickendorf. Aroser Allee,Emmentaler Str,Romanshorner Weg u.a. 13407 Befhn) 2
 
     国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

 アローザー・アレーをまたぐ住棟は長さ100メートル、幅40メートルの鉄筋コンクリート構造の橋のうえは4階、その両翼は5階建てでひときわ高く、棟の中央上部には南北両壁に大時計をとりつけ、団地の正面入口を思わせる。その南側が、見るからに団地のセンターであり、建物の1階と周辺には、公共的な施設や商店が多い。

 商店はセンターばかりでなく団地の各所に数多くあり、当初から日常の生活必需品すべてをまかなうことができた。幼児施設、診療所、カフェ等もつくられた。1930年代には、セントラルヒーティングが各戸に暖熟、熱湯を供給し、洗濯工場もあった。当時はもちろん、今日みてもきわめてユニークな水準をしめしている。屋外設計をしたレツサーは、団地内に人びとがふれ合うエリアを数多くつくり、それは狭く住民向けスペースというより、広く公共利用の緑地帯、遊園地の機能をめざしたという。

 橋上住棟の大時計は、当初は時報を告げていたにちがいない。ヨーロッパでは1920年代に懐中時計にかわって腕時計が普及しはじめているが、労働者団地の住民が各自どれだけ時計というものを持っていたかどうか。この時計は住民の生活になくてはならないものだったはずである。団地の中心、正面を誇示する装飾品ではなく、教会や市役所の時計と同じ役割をはたしていた。そんなふうに思えた。

 団地の南端はエメンターラー通りにかこまれ、アローザー・アレーの両側に3階建ての住棟が建ち並んでいる。南からみて左は中庭をかこむ方形に、右は扇状と台形の配置になっている。通りが交差する両端の建物は高く、l階が店舗ノ刷舗等で上が住宅の5階建て、南の団地入口をなしている。この両建物の上には旗ポールがとりつけてある。旗ポールは労働運動のパトスの表現といわれ、ここでは団地コミュニティのシンボルとなっている。

 ヴァイセ・シュタットが完成して1930年代のはじめ、現代団地建設のシンボルと国際的にも大いに話題になった。新たな都市構造にあわせ、かつ伝附勺なさまざまなモティーフを結合させたとの評価である。ブルーノ・夕ウ卜たちの「ノイエス・バウエン(新建築)」のコンセプトから出発しながらも、人口稠密のインナーシティの都市計画パターンとも、農村的な田園都市パターンともちがう。ゲハーグ社が建設したブリッツやツェーレンドルフの団地とたしかにコントラストをみせている。

 ヴァグナーがベルリン市の都市建設参事官をつとめたのは1926年から7年間、33年には追われ、35年にはトルコに亡命してるから、この団地と同時に着手したジーメンスシュタット団地が、かれのドイツ最後の仕事となったのであろう。20年代後半に財政が困窮するなかでこれら2団地のためにヴァグナーは苦心して特別予勘,500万ライヒスマルクを獲得し、資金を確保したと記録されている。困難な時代のなかでの戦いと、創りあげられた作品との響きあう関係が具体的にどう表われているのか、わたしには分からないが、世界遺産登録をめざした人びと、評価して登録を決めた人たちはその「何か」を確認しているにちがいない。

 ヴァイセ・シュタット団地は、工場地帯に近いせいか戦中の空爆で一部被害をうけ、1949年から54年にかけ原型への修復、改装がおこなわれ、82年には記念物保護の指定をうけて本格化した02000年代になって、住宅の私有化がはじまり、団地の所有も2006年にゲハーグ社に、17年にはドイチェ・ヴオーネン社にうつり、民営化・私有化が進められている。

 帰り道、団地の掲示板に賃貸住宅の募集案内を見かけた。〈2階、2室51.96㎡、基本家賃301.37ユーロ、雑費137・97ユーロ(暖房費52・26ユーロ)、保証金904.00ユーロ〉とあった。

 はじめ来た大通りの北側には、黄葉の雑木林があり、小さな古い教会のまわりには瀟洒な戸建ての住宅が散在している。近くに学校もあった。いちめんの落葉を踏みしめながらしばらく散策し、この地に別れをつげて、ファルケンベルクにむかった。

『住宅団地 記憶と再生』 東信堂


nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。