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郷愁の詩人与謝蕪村 №17 [ことだま五七五]

夏の部 1
          詩人  萩原朔太郎

うは風に音なき麦を枕(まくら)もと

 嵯峨(さが)の田舎(いなか)に、雅因(がいん)を訪ねた時の句である。一面の麦畑に囲まれた田舎の家で、夏の日の午睡をしていると、麦の穂を渡った風が、枕許(まくらもと)に吹き入れて来たという意であるが、表現の技巧が非常に複雑していて、情趣の深いイメージを含蓄(がんちく)させてる。この句を読むと、田舎の閑寂な空気や、夏の真昼の静寂さや、ひっそりとした田舎家の室内や、その部屋の窓から見晴しになってるところの、広茫(こうぼう)たる一面の麦畑や、またその麦畑が、上風(うわかぜ)に吹かれて浪(なみ)のように動いている有様が、詩の縹渺(ひょうびょう)するイメージの影で浮き出して来る。こうした効果の修辞的重心となってるものは、主として二句の「音なき」という語にかかっている。これが夏の真昼の沈黙や、田舎の静寂さやを、麦の穂の動きにかけて、一語の重複した表象をしているのである。また「上風に」のに、「音なき麦を」のをが、てにをはとしての重要な働きをして、句の内容する象景を画(えが)いてることは言うまでもない。
  俳句の如き小詩形が、一般にこうした複雑な内容を表現し得るのは、日本語の特色たるてにをはと、言語の豊富な聯想性(れんそうせい)とによるのであって、世界に類なき特異な国語の長所である。そしてこの長所は、日本語の他の不幸な欠点と相殺(そうさい)される。それ故に詩を作る人々は、過去においても未来においても、新しい詩においても古い詩においても、必須的(ひっすてき)に先(ま)ず俳句や和歌を学び、すべての技術の第一規範を、それから取り入れねばならないのである。未来の如何(いか)なる「新しい詩」においても、和歌や俳句のレトリックする規範を離れて、日本語の詩があり得るとは考えられない。

柚(ゆ)の花やゆかしき母屋(もや)の乾隅(いぬいずみ)

  土蔵などのある、暗くひっそりとした旧家であろう。その母屋(おもや)の乾隅(西北隅)に柚の花が咲いてるとも解されるが、むしろその乾隅の部屋――それは多分隠居部屋か何かであろう――の窓前に、柚の花が咲いていると解する方が詩趣が深い。旧家の奥深く、影のささないひっそりした部屋。幾代かの人が長く住んでる、古い静寂な家の空気。そして中庭の一隅には、昔ながらの柚の花が咲いているのである。この句の詩情には、古い故郷の家を思わせるような、あるいは昔の祖母や昔の家人の、懐かしい愛情を追懐させるような、遠い時間への侘(わび)しいノスタルジアがある。これもやはり、蕪村の詩情が本質している郷愁子守唄(こもりうた)の一曲である。ついでに表現の構成を分析すれば、「柚の花」が静かな侘しい感覚を表象し、「母屋」が大きな旧家――別棟や土蔵の付いてる――を聯想させ、「乾隅」が暗く幽邃ゆうすいな位置を表象し、そして「ゆかしき」という言葉が、詩の全体にかけて流動するところの、情緒の流れとなってるのである。

『郷愁の詩人与謝蕪村』 青空文庫


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