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住宅団地 記憶と再生 №22 [雑木林の四季]

14.ヴァイセ・シュタツト団地 WeiBe Stadt(Reinickendorf. Aroser Allee,Emmentaler Str,Romanshorner Weg u.a. 13407 Befhn) 1

     国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治


 2010年1月には世界遺産の6団地すべてを回りきる時間がなくてあきらめた2団地のうちの一つである。フアルケンベルクは遠かったのと、この団地はタウトの設計ではないので見送ることにした。これまで見てきた団地はいずれもタウトの設計とはいえ、それぞれに変化があり特徴もはっきり感じられた。それでもすべて、やはり共通して鮮烈にタウト色に染めあげられていた。そのことをはっきり印象づけられたのは、彩色で対照的なこの団地を見てからである。

 2010年10月16日は曇りときどき小雨、気温は8~12度ともう肌寒い日であった。環状線Sバーンのゲズントブルーメン駅で乗り換え、U8バーンのパラケルスス・バートで下車した。あとで地図をよくみると、シラーバルク団地に近かった。シラーバルク団地がミッテ区の北端、その北のライニケンドルフ区の南端にこの団地が、つまり区境をはさんで南北に両団地は位置していた。ついでにいうと、シラーバルクに行くさいのSバーン乗り換え駅ヴェデインクとゲズントブルーメンの両駅は、わたしの持っていたフアルクの市街図2001年版にはまだ存在せず、開通工事中になっている。ベルリンの壁のため環状線は分断されていて、完成したのは21世紀になってからだろう。戦争の傷跡深いこの地区に生き残った団地が世界遺産に登録されたことにも感慨をおぼえる。

 駅の出口に「世界遺産ヴァイセ・シュタット」の案内表示があった。小雨のなか駅前のリンダオアー・アレーを東に5分あまり歩いた。まわりは都市計画をまだ図面で見ているような新開地といった光景であった。右手を南にむかうと大きな道路がひらけている。アローザー・アレーである。遠方にその通りをまたいで東西にのびる橋上建物が見える。右手の道路沿いには長さ280メートル、4階建て乳白色の住棟がつづく。その裏にも平行して100メートル近い3階建て住棟が2棟並び、住棟にかこまれて、なかは40メートル幅の長大な中庭となっている0芝生の広場とマロニエや白樺などの木立ちが帰の空間をつくりだしている。

 アローザー・アレーの中央分離帯には木々が立ち並び、その両脇は植樹帯「車道」、植え込みがあって長い住棟、反対側は学校のグランド、スポーツ公用がつづいて建物はなく、広々とした並木道となっている。

 「シラー・プロムナード」の名で建設がはじまったこの団地は、完成後「ヴァ「セ・シュタット(白い街)」と名づけられた。近づいてくる建物は全体が白・色、外壁を塗り替えたにせよ、とても1929~31年にできたとは思えない真新しい印象をうける。

 この団地も、ベルリン市の都市建設参事官マルテイン・ヴァグナーの指導のもとに進められ、設計はオットー・ルドルフ・ザルビスベルク、ブルーノ・アーレンズ、ヴイルヘルム・ビュニング、屋外空間の設計はルートヴィヒ・レツサーが担当し、市が所有するプリームス住宅公社Primusが施主となった。敷地面積は14.3ヘクタール。3人の建築家が、目前にある団地北端から正面のブリッジ住棟まで、その左手の街区と、団地南の街区の3区に分かれ、それぞれ建築様式、ディテールに明確な独自性を見せている。

 とはいえ、マスタープランづくりの基本は合理性と経済性、この団地に求められた要件は「ひじょうに安く」「小さな平面」だったという。総戸数1,286戸、すべて平屋根、3階建てが最も多く、各戸の規模は1室か最大でも2・5室が80%を占める。経済上の絶対的な制約のもとで建築家がどこに、どのように独自性を発揮するか。そのためにも、逆に建材や部品、とくにキッチンなど、可能な部分の標準化、画一化、プレハブ化が極限まですすめられた。

 全体は白一色の印象をうけながらも、平屋根のひさしや雨どい、階段室、バルコニーの張り出し、枠取り等の様式、玄関扉や窓枠の意匠と鮮やかな色のアクセントに目をうばわれる。


『住宅団地 記憶と再生』 東信堂



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