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海の見る夢 №63 [雑木林の四季]

        海の見る夢
          ―マタイ受難曲―
                 澁澤京子

 私がバッハの『マタイ受難曲』について書くのはあまりにもおこがましいが、この間、カール・リヒターの3時間16分に及ぶ長時間演奏(you tubeで字幕付きのが聴けます)をはじめて全曲聴いてかなり感動したのである・・特に、ユダ、ピラト、ペトロという三人の人物についての印象が聖書とは違って、今も生きているかのようにリアルに感じた。

イエスを裏切るユダについては、一般的には、卑劣な裏切り屋というイメージだが、『マタイ受難曲』でのユダは、悪党というよりも、堂々とイエスを裏切るところなど、むしろ最初は密告という行為にほとんど罪悪感を持たなかった感じがある。金貨と引き換えに、というところでユダが世俗的価値観の持ち主だったこともわかる。イエスに従っても何にもならない、というような軽率な気持ちで密告したのかもしれない。キリストの死刑の判決を聴いて、はじめて彼は自分の犯した罪の重さと大きさに気づく。キリストの無実を訴えて、受け取った金貨を返そうとするが拒否され、彼は何よりも大切なものを喪失したことにはじめて気が付く。やっと目覚めたのだ。出来心で告げ口したために起きた、取返しのつかない過失・・自身に絶望したユダの自死はとても寂しくて哀しい。三人の中で、最も良心の呵責に苦しんだユダ。

総督ピラトは思慮深い人物というより、妻から言われてイエスの無実を知りながらも、総督の地位にあるというのに、いきり立つ群衆を治めることすらできず、責任を放棄して逃げるという、意志が弱く、他人の意見に左右されやすい気の小さい人間。

ペトロは真面目な人物だが、いざとなると自己保身に走る、小心者。彼は自分も捕まる恐怖心から思わずイエスを裏切ってしまい、あとで号泣する・・

三人とも、どこにでもいそうな普通の人々で、誰もが犯しそうな過ちを犯したのである・・

最後に群衆。昔は、なぜ群衆が皆で「イエスを殺せ!」といきりたつのかよくわからなかったが、今はわかる。群衆というものは一斉に同じ方向を向くのである・・たとえが悪いかもしれないが、ジャニーズ報道を例にあげると、マスコミはずっと見て見ぬふりを続けたかと思うと、外国人記者に指摘されれば、皆で一斉に騒ぎ始める。指摘されるまでは見て見ぬふりをしていたことのほうが余程恥ずかしいと思う。セクハラ、モラハラに限らず、「(実力ではなく)権力者の寵愛を受ければ出世する」という絶対君主制の構造は、いまだ芸能界のみならず、政治でも企業でもどの社会にも存在すると思うが、こうした本質的な問題は議論されていないような。(私が見逃しただけなのかもしれないが)差別やイジメの問題も含めて、人権蹂躙の根本にあるのは「他人より優位に立ちたい欲望(競争心)」「他人や人間関係をコントロールしたい欲望(支配欲)」、あるいは、弱者に向けられたストレス発散などだろう。

見て見ぬふりか、無関心か、集団リンチか。今の日本人の倫理感がそこによく表れていると思う・・個人で疑問を持ったり、内容をじっくりと吟味するのではなく、思想や倫理をファッションか何かのようにとらえ、状況が変わればコロッと意見を変え、皆が非難しているから絶対に悪い(「皆」というところがポイント)というレベルだと、それらはひっくり返せばいつだって集団リンチにつながってゆくだろう。

・・だから目を覚ましていなさい。~マタイ・25・13

幸田露伴は「弱即悪」と言った。つまり、イエスを殺したのは、どこにでもいる、目先の事しか見えず、浅はかで、自己欺瞞と自己保身に走る小心者、常に誰かに責任を押し付け、他人のせいにするのが好きな、どこにでもいるごく普通の人々だったということだ。そして、誰かが声高に誰かを糾弾すれば、流されて一緒に糾弾する群衆も含み(きっと一人一人はいわゆるいい人なのだろう・・)、それらの登場人物全員に共通するのは「自分が何をしているのかよく見えない」無意識の状態で、イエスを十字架に磔にして殺してしまったところだろう。そうした人の「弱さ」・・イエスを殺したのは、私たち誰もが持つ「弱さ」であり、夢遊病者のような私たちの「無意識状態」であったということだ・・イエスの「目を覚ましていなさい」は、そういう意味だったのかもしれない。

わかりやすい悪党ではなく、どこにでもいる人物を登場させることによって『マタイ受難曲』は壮大なドラマでありながら、内省的な深い作品になっている。

マタイ受難だけじゃなく、聖書に出てくる人には皆、リアリティがある。罪を犯した人が不幸になるのを楽しみに見学しようとしたため、神に叱られるヨナとか・・そうした、滑稽で愚かで弱い人間から、ヨブのような誠実で高潔な人間まで、どこにでもいそうな人物ばかり。人の心は、繊細で複雑で流動的なものである・・聖書は、よほど人間観察の優れた書き手が何人かで書いたのに違いない、多様な人間模様と、流動的で変わりやすい人の心がそのまま描かれているので、聖書を読んでいると、人間というものがよくわかる。

イスラエルの音楽フェスティバルがハマスに襲撃された。一方、アル・ジャジーラのニュースでは、建物が崩壊し瓦礫とともに倒れている人々、ぐったりした埃まみれの女の子を抱いて走り回っている父親・・悲惨な今のガザの状況が映像に映っている。ハマスも悪いが、イランがパレスチナを支援し、イスラエルを支援するのは主にアメリカで、犠牲になるのはいつも無辜の市民。特にガザでは多くの子供たちが常に犠牲になる・・良識的なイスラエル人識者が言うように、イスラエルによる強硬なパレスチナ支配が続く限り、この不毛な争いはやまないのだろうか。ハマスをテロリストというが、仮にテロリストだとしても(パレスチナを国家として認めない場合)、テロリストが殺すのと、イスラエルの最新兵器や無人機が人を殺すのと、いったいどっちの罪が重いというのだろう?

対立というのは、個人の、一対一の対立でも、第三者の介入があればますます裂け目が広がり深まるだけで、たとえそれが善意によるものであっても対立が収まることはめったになく、まして介入する第三者に利己心や悪意があれば、それこそ決定的な分裂となる。それと同じように、民族同士の対立も他国の支援や介入によってますます複雑なひどい状況になってゆくのは、大国の利害と欲望が絡むからだろう・・

ゴダールの遺作となった映画『イメージの本』に「贖罪」という言葉がしきりに出てきた。湾岸戦争や中東の紛争の映像が断片的に流され、最後のほうに出てくる、海辺で遊ぶ中東(パレスチナ?)の子供たち。背景の海の色が、まるで夢のような強烈に鮮やかな青だった。

遠く離れた安全な日本で、パレスチナ紛争を語る事には一抹のむなしさを感じる。インターネットにより世界のさまざまな情報を瞬時に知る事ができるが、それと同時にそうしたニュースがますます他人事となり、まるで夢のような出来事になってゆくような気がする。

罪というのは、夢遊病者のように無意識で生きている私たちが、それと知らずに犯しているものなのかもしれないと思う。


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