SSブログ

浅草風土記 №12 [文芸美術の森]

吉原附近 5

       作家・俳人  久保田万太郎

      五
 
 そのあと三四年してである、いうところの「十二階下」という一区画の出来たのは……
 これよりさき公園の中の、玉東だの、剣舞だの、かっぽれだの、郡桶だの、浪花桶だの、
そうした「見世物」の一部にすぎなかった「活動写真」がその前後において急に勢力をえ
て来た。そうしてわずかな間にそれらの「見世物」のすべてを席巻し「公園」の支配権をほとんどその一手に掌担しょうとした。と同時に「公園」の中は色めき立った。新しい「気運」は随所に生々しい彩りをみせ、激しい、用捨のない響きをつたえた。――幸龍寺のまえの溝ぞいの町も、そうなるとまたたく間に、「眠ったような」すかたを、「生活力を失った」その本来の面目をたちまち捨てて、道具屋も、古鉄屋も、檻襟屋も、女髪結も、かざり工場も、溝を流れていた水のかげとともにいつかその存在を消した。そうして代りに洋食屋、馬肉屋、牛肉屋、小料理屋、ミルクホール、そうした店の怯(め)げるさまなく軒を並べ看板をつらねるにいたった。――ということは、勿論そのとき、その横町の、しずかな、おちついた、しめやかなその往来の、格子づくりのしもたやも、建仁寺の植木屋も、「三番組」の仕事師も、いつかみんな同じような恰好の小さな店。――それは嘗て「公園」の常盤座の裏、でなければ、観音堂の裏で念仏堂のうしろ、大きな榎の暗くしずかに枝をさし交していた下に限ってのみ、み出すことの出来た小さな店……銘酒屋あるいは新聞縦覧所……にたち直っていたのである。
 その後また大きな火事があって「公園」の大半を焼いた。「公園」ばかりでなく、その火は「広小路」の一部をさえ焼いた。――それまではまだ隅々に幾分でも「奥山」の相(すがた)を残していた「公園」がそれ以来根本から改まった。すなわち猿茶屋がなくなり、釣堀がなくなり、射的がなくなり、楊弓場がなくなった。松井源水の歯みがきを売る人寄せに、独楽をまわしたり居合抜きをしたりすることも再びそこにみられなくなった。――十二階株式会社の、余興と称して入場者に小屋かけの芝居をみせたり、最上階で甘酒の接待をしたりしだしたのもその火事以後のことである……
 で、「公園」は、そこで完全な活動写真街になった。――曰く電気館、曰く富士館、日
く三友館、日く大勝館、日くオペラ館、円く何、日く何……
 かくして可哀想に「千束町」は……つみも報いもない千束町という町は、浮気な、悪性
な、安白粉の句の骨の髄まで浸込んだ町として天下に有名になった。-そうして、それ
は、それ以外の存在の何ものでもなくなった……

      六

 と、震災である。十二階は十二階劇場……嘗てのかの小屋かけの余興場から出発した十二階劇場をだけ残して亡びた。-が、幾ばくもなくいまの昭和座が出来、その十二階劇場もまたわたしたちのまえから永遠にそのすかたを消した。
「けど、では、十二階のあとはどうなっている?」
 そう思って今日……昨夜の今日である……晴れぬいてさびしい青空の下、いとおしく輝くあかるい日の中をわたしは御苦労にも古なじみの幸龍寺のまえに立った。――どうしてそう助かることの出来たものか、幸龍寺の門、焼けないでもとのままの……震災以前のままの古い、大きい、すべり落ちそうな瓦屋根をもったそれである。
 そのくせ境内はみるかげもない。
 その往来を……むかしのその溝ぞいの往来をあるくことはわたしにとって決してめずらしいことではない、三月ほどまえにもあるいた、一ト月ほどまえにもあるいた、必要によってつねにわたしはあるいている ――が、つねに、いつもは、そこをあるくのが目的ではない。――それだけにわたしは、空にいつもみてすぎていたその往来のうえを、しげしげといまみ守ることによって軽い驚きを感じた。――整ったからである、おちつきが出来たからである、ヒレがついたからである……
 いいえ、その家ならびのうえに。1町としてのそのいとなみのうえにといって当年の洋食屋、馬肉屋、牛肉屋、小料理屋、ミルクホール、そうしたものの妨げるなく立並んだ光景を再びそこにみるよしのなくなったわけではない。牛島御料理、鮮魚御料理、酒場、喫茶店、カフェエ(馬肉屋とミルクホールとはいまにして完全に「昨
日」の存在になった)そうした店々の、競ってその両側に、それぞれのその看板をかかげていることは、むかしの光景にまさるとも劣らない位である。――が、いえばその家づくりに、店飾りに、嘗てのような「街(てら)い」がなくなった。「焦慮」がなくなった。……しかもそれらのその水稼業(みずしょうばい)に立交って、自動車屋だの、ラジオ商だの、なにがし金融事務所だの、そうした堅気(この場合の水稼業に対してである)の店々のそこにそういう適当な配置をもつにいたったことが否むことの出来ない堅実感を与えている。……それにはまた倍余り広くなった道幅がそうした光景を許す機縁になったこともたしかである……
 狂燥な「新しい町」にも年月はふりつもった。
 わたしは薬屋と小料理屋とを両角にもった「昭和通り」という狭い横町を入った。そこがむかしの、しずかな、おちついた、しめやかなあの往来のあとに違いないと思ったからである。が、そこには、こまごました商店の、平凡な規則ただしい羅列があるばかりだった。
「こんなはずでは?……」
 そう思いつつわたしはさきへすすんだ。――と、わたしは、いつかその往来を出外れていた。――いつかわたしは「米久」のまえの、人通りのいそがしい往来の中に立っていた
「此奴は……」
 やや狼狽(あわ)ててわたしは引っ返して。――左へ曲れる道を発見して試しにそれをえらんだ――飽っ気なくわたしは昭和座の横へ出た。
 縦横十文字。――整然とした十字路……
「そうかなァ」
 ひそかにわたしは嘆息した。分り切った話の、「十二階」のあとは「昭和座」になったのである。
 ひそかにわたしは嘆息した。分り切った話の、「十二階」 のあとは 「昭和座」 になったのである。――はッきりそういえばいいのである。――よけいな心配をする必要はないのである。
 ぼんやりわたしは踵(きびす)を返した。――空は青く日のいろは濃い……


『浅草風土記』 中公文庫


nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。