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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №115 [文芸美術の森]

        奇想と反骨の絵師・歌川国芳
         美術ジャーナリスト 斎藤陽一

第10回 「パノラマ大画面の武者絵」その2

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≪見どころは巨大な鰐ザメ≫

 歌川国芳は、弘化期(50歳)頃から、三枚続きの全部を使ってワイドなパノラマ画面とし、そこに「武者絵」を描くということをやり出しました。
前回は、そのような大胆なワイドスクリーンの構図で描いた「相馬の古内裏」と「宮本武蔵の鯨退治」を紹介しました。
 今回紹介する「讃岐院眷属をして為朝をすくふ図」(上図)も、三枚続きの和紙を大きく使って描いた錦絵です。

 この絵は、曲亭馬琴の読本『椿説弓張月』から題材をとり、時間の異なる三つの場面を「異時同図法」によって一枚の中に描いています。
 平安時代末期、保元の乱が起こり、後白河天皇、平清盛らに敗れたのが崇徳上皇、源為朝らの陣営。その結果、崇徳上皇は讃岐に流され、源為朝は伊豆大島に流されました。
 国芳の絵の題名にある「讃岐院」とは讃岐に流された「崇徳上皇」のこと。

 やがて源為朝は伊豆大島を脱出、九州から平家追討のために船で出帆したところ、暴風雨に遭った。同行していた為朝の妻・白縫姫(しらぬいひめ)は、海を鎮めるために身を投じる・・・
 「最早これまで」と為朝が自決しようとした時、讃岐院(崇徳上皇)が配下のカラス天狗たちを遣わして為朝を救う。
 一方、為朝の一子・舜天丸(すてまる)を守る忠臣・八町礫紀平治(はっちょうつぶてのきへいじ)を救ったのは、巨大な鰐(わに)ザメ。
 三枚続きの画面には、これだけの場面が「異時同図法」によって描かれているのです。

115-2.jpg この絵からも、国芳のパノラマ画面の特質であるダイナミックな運動感が伝わってきますね。

 しかし、国芳が何よりも描きたかったのは、巨大な鰐ザメと荒れ狂う浪でしょう。
 鰐ザメの金属的な光沢のある鱗肌にご注目!
 この見事な質感表現は、絵師の力だけではなく、彫師と摺師の超絶技巧があって実現したもの。
 当時の木版技術は、世界的にみても最高水準に達していました。

≪またも平家一族の亡霊が≫

 もうひとつ、国芳の大判三枚続きの絵を紹介しましょう。

 「大物之浦(だいもつのうら)平家の亡霊」と題する錦絵です。(下図)
 平家滅亡後、兄の頼朝に疎まれた源義経は、再起を図ろうと摂津の大物之浦から西国に向けて船出をしますが、暴風雨に遭い、平家一族の亡霊も現われて船を襲うという場面が描かれる。

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 実は国芳は、まだ若かった24歳頃に、同じ主題の絵を三枚続きの大画面に描いているのです。その絵は、「歌川国芳」の項の第1回(「はじめに~国芳登場」で紹介していますので、ご参照ください。

 それから30年後に描かれたのが、この「大物之浦平家の亡霊」です。
 国芳初期の作品でも、義経一行の乗った船が、奇怪な大波に翻弄されていましたが、こちらの絵では、中空に亡霊たちがシルエットで表わされ、様々な仕草で船に襲いかかろうとしており、幻想性が一層強まっています。
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 船の上では、義経を中心に家来たちが緊張した面持ちで、亡霊たちをにらみつけている。
 船の舳先には、武蔵坊弁慶が突っ立ち、何かを差し示している。物語では、このあと、弁慶が数珠を揉んで祈祷を行い、法力によって亡霊たちを退散させることになっているが・・・国芳は、中空で踊り狂うかのようにして義経一行を脅かせている亡霊たちのひとつひとつを嬉々として描いている。
 これらの亡霊たちは、日本伝統の幽霊やお化けというより、どこか西洋的であり、たとえば「ハロウィン」の妖怪たちのような雰囲気があります。

 大波の描写も尋常ではない。まるで巨大な岩の塊が船を襲うような描き方であり、これまでに見た「宮本武蔵の鯨退治」(先回:第9回)や「讃岐院眷属をして為朝をすくふ図」の波の描写とは異なります。
 義経一行に襲いかかる大波と嵐は、平家の亡霊が船のまわりにだけ起こしたものであり、右端の背景にはわずかに陸地と海が描かれていますが、そちらの海面は平らかで静かなのです。
 国芳絵画の特質のひとつは、このような「怪奇趣味」だと言えるでしょう。

 次回も、歌川国芳の三枚続きのパノラマ画面を紹介します。
(次号に続く)


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