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浅草風土記 №11 [文芸美術の森]

吉原付近 4

      作家・俳人  久保田万太郎

     四

 「……十二階のまえをつきあたって左へ切れ、右へ曲ると、片側は辛龍寺の古い筋塀の、片側は幅六尺あまりの大きな溝のまえに、屋根の低い、同じような恰好をした小さな古家ばかりずっと立続いていました。――店に堆くがらくたを積んだ道具屋、古鉄をならべたふるがねや、襤褸屋(ぼろや)、女髪結、かざり工場。――そうしたうす暗い陰気な稼業のものばかりがその溝の上にかたちばかりの橋をわたして住んでいました。」
 わたしはかつて「ふゆかすみ」という文車のなかにこうしたことを書いた。

 「その家つづきの尽きたところにやや気ましな橋があり、そこを右へ入ったところに、狭くはあったが、しずかな、おちついた、しめやかな感じの往来がありました。右手には格子づくりのしもたやが二三軒ならび、左手には、めぐらした建仁寺のかげにいくつもの盆栽棚の出来ている植木屋の広い庭と、古い、がっしりした格子をおもてに入れた三番組の仕事師の住居とが並んでいました。-その往来の行きどまりは十二階の裏門で、仰ぐと十二階の巨人のようなすがたがすぐその眼のまえにそそり立っていました。」

 ……というのは十二三の時分、わたしは、半年ほどその近所で毎日をくらした。――その時分、その仕事師のうちの前をまた入ったところの細い道に、わたしの祖母の姉にあたる人が住んでいた。わたしはこの人のことを「大きいおばァさん」と呼んで祖母につぐ好きな人としていた。その関係で始終わたしはそのうちに入浸った……とはいうものの、それに上越すもう一つの大きな理由は、その「大きいおばァさん」という人が、意気な、華奢(はで)な、婆婆っ気の強い人だっただけ、唄の師匠は来る、芸妓は来る、役者は来る、始終うちのなかが賑やかだったのである。それがわたしにうれしかった。「夜学」へ通うのに近いということを理由にしてしまいには泊りッきりにとまり込んだりした。……どんなにそれが親たちの機嫌をわるくしたことだろう……

 「……馬道の学校から帰ると何をする間もなく夕方になります。あたりが刷かれたように暗くなります。――と、近所に用のあるものでない限り、でなければ松井源水のほうからの近みちの露地を抜けて来るものででもないかぎり、そこを往来するものといっては絶えてないその道のうえを――そのしらじらとした道のうえを植木屋の建仁寺について溝のうえの橋に出ると、吉原のおはぐろ溝のほうから来る水が、ことに雨上りででもあると、岸を浸して、深く、寂しく、おもいかさなるさまに流れていました。――その水に、そこの紺屋の店さきに咲いた爽竹桃の未練らしい影を映していたのを昨日のようにしかまだ思わなくっても、風はもうしみじみと身にしみて、幸龍寺の、新谷町のほうまで長々とつづいた塀も、塀の角に屋台を出している団子屋の葭簣っ張(よしずっぱり)も、その蔭貸っ張のまえに置かれた人力車も、すべて末枯(うらがれ)の、悲しく眼をふせ額をふせた光景でした。――わたしの記憶にもしあやまりがなければ、空は毎日、日の目をみせずどんより曇ってばかりいました。」

 そういうそこは寂しい土地だった。「眠ったような」とでもいえれば「生活力を失った」とでもいえるすかたをした所柄だった。そうして、その溝について真っ直にどこまでも行けば、吉原の、前記「検査場の門」のまえにおのずから出られた。
 さすがにもうその時分には一めんの田圃もだんだん埋められ、以前のように太郎稲荷(「たけくらべ」の第六章「……鰐口ならして手を合せ、願ひは何ぞ行きも帰りも首うなだれて」畦道(あぜみち)つたいに美登利の帰ってくる中田圃の稲荷とはこれである)の森もみ通しにはみえず、道の両側に拡った水田の影もすでにみられなくはなったものの、すすんでその「検査場の門」のまえくらいまで行けば、田圃の名残の、枯れ枯れになった蓮池が夕ぞらのいろをしずめているといった風の光景を寂しくなおそこにみ出すことが出来た。

 「夕飯をたべると、わたしは包みをかかえて宮戸座の近くまで『夜学』にかよいました。包みの中にはナショナル読本(リーダー)と論語とが入っていました。――すがれた菊の鉢のかげにほそぼそと虫の鳴いている夕あかりのなかを、抜けみち伝いに『米久』のまえの広い往来へ出ました――そのまえ、通りすがりに萩野という酒屋のうちの友だちと、石川という比羅屋のうちの友だちとをいつもさそいました。」

 「宮戸座の近く」とそういっていえないことはないけれど、その毎晩「夜学」にかよったさき、ほんとうをいうと宮戸座よりもずっともっと手前のとある横町の露地の中にあった。もと浅草学校の先生で、其ころ本所の江東小学校の先生をしていた三木さんという人のところへ通ったのである。江東小学校といえば亡き芥川君のいた学校である。ことによるとだから芥川君もこの先生を知っていたかも知れないと思った。聞いてみようみようとおもいながらいつも忘れてとうとう聞きはぐった、惜しいことをしたと思っている。
 一しょにその「夜学」へかよった仲間の萩野という男は第三中学を出たあと京都の高等学校の一部へ入ったが、在学二年にして世を早くした。石川という男は、いまは他姓を名乗り、帝展派の聞えた画かきになっている。
 「ほんとうにすればそこから千束町の通りをぐるッと廻らなければならないのを、土地っ子の勝手を知っているままに近みちをして『草津』の裏の芸妓新道をわたしたちは抜けました――行きは三人ですから何のこともなかったものの、『夜学』の暗いランプの下で一、二時間すごしたあと、待合せて同じ方角へ帰るものばかり六七人、その同勢で再びその新道を抜けるとき、必ずそのなかの一人が『草津』の離れの、ほの明るく燈火のかげのさしている障子めがけて石をぶつけました。それと一しょに、わたしたちは、大通りさして一散に、呼吸もつかずに逃げました。――そうしたいたずらを毎晩のようにつづけました。」

 「草津」といえば公園切っての大きな料理屋である。――「大きな」という意味は「資本主義的色彩のそれほど濃厚な」というほどの意味である……

 「…が、秋の深くなるにつれてそれもいつとはなしに止みました。草津の離れにも燈火のみえない晩がだんだんとふえました。――両側にしつッこく立並んだ同じょうな格子づくりのうちの、土間のうえに下げた御神燈のかけがいたずらに白く更け、どこからともなく聞えて来る三味線の音じめがすでに来た夜寒のさびしさを誰のうえにも思わせました。」
 そのころ「米久」の向っ角に、当時はまだめずらしかった支那料理屋が出来た。「支那料理」といえば横浜しか思わなかった時代である。必ずわたしたちはその「夜学」の帰りその店の芝に引ッかかった。なぜならその店のまえで売る揚饅頭の白い湯気が冬の近い燈火のいろをいつも明るくつつんでいたから。――そこにはかけ声いさましい「吉原通い」の陣の音が、狭い往来の上をれきろくと絶えず景気よく響いていた。
 で、十一月は来た。1そうしたなかに「酉の市」の季節は来た……

『浅草風土記』 中公文庫



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