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住宅団地 記憶と再生 №21 [雑木林の四季]

13・住宅都市カール・レギーン Wohnstadt Carl Legien(Prenzlauer Berg. Erich-Weineft.Str. u.a.10409 Berhn)

     国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

 2010年の1月早々にベルリンに来て、最初に訪れた世界遺産の団地は、建設年順では4番目のこの団地である。午後にブリッツの馬蹄形団地へまわった。雪がふかく歩きにくかったし、宿から近い団地をえらんだ。シェーンパオザー・アレ一駅からSバーンでl駅東のプレンツラオアー・アレ一駅、歩いて5分あまりのところにある。環状Sバーン内をベルリンの旧市街とすれば、6団地中ただ一つの旧市街地団地である。
 北東の果ながら旧市街にあり、駅前から5階建ての、どこか陰気な古びたアパートメント群がびっしり建ち並んでいる。これが20世紀はじめまで労働者街に典型的な「賃貸兵舎」とよばれる集合住宅かなと思いながら歩いていた。すぐに大きな道路、グレル通りにでると、ぱっと頭上に空がひらけ、向こうに住宅都市カール・レギーンが見えた。団地の周辺にあるのは公園、公共施設らしい。
 1928~30年建設の4~5階建て、築80年をすぎた団地だから、世界遺産ということでの修復や化粧直しがなければ、駅前のアパート群とそう大差はなかったのかもしれない。しかし近づくにつれて、整然と広がる明るい色調の住棟のこの一画はやはり目立つ。
 団地の中央を東西に横断するエーリッヒ・ワイナート通りの両側からU字型の住棟が向きあい、住棟にかこまれた中庭は、通りをはさんで一つながりに見える。U字が向かい合って全長250メートルあまり、中庭は長さ約250メートル、幅約25メートルの長方形をなしている。中庭に高木のはかに低木があちこちに群生していた。雪がとけると、芝生のカーペットがあらわれるのだろう。眺めていると、ここにかぎらず団地の中核、生命は中庭にあるような、中庭には象徴的な意味、公共的な役割を担っているように思える。建物が密集する市街地だけに、緑ゆたかな団地の広場は、周辺の住空間にもゆとり、人びとに安らぎを与えている。
 向きあうU字型2棟を1ブロックとすると3ブロックといえようか。各棟の両端、つまり中央の通りに面した部分だけは5階建てで高く、バルコニーが展望台のように円く張り出し、団地の顔をなしている。そこ以外は4階建て、各戸のバルコニーはすべて中庭に向いている0住宅の平面図をみると、バルコニーを思いっきり広げて、これに接するリビング空間にゆとりを演出し、広々とした中庭を日々眺めて暮らす設計になっている。玄関と階段室、浴室、キッチンは反対の道路側にある。背中合わせの住棟の壁面はすっきりと合理的に整理され、狭い間隔は植込みのある通路となっている。そこに何台も路上駐車していた。市街地の限られた敷地のなかでの住宅設計のポイントを示唆している。
 タウトは「色彩は生命の質」をモットーに、広々とした緑のオープンスペースに日光と空気の流れをとりこむ家づくりにくわえ、心を砕いたのは色彩の効果である。デザインはもちろん配色によっても、広さとゆとりを醸しだし、個性化の演出をはかった。外壁は濃淡の褐色を基調にブルーや緑色もっかい、ファサードとバルコニー、窓枠には赤と自あるいは黄色と、フアルケンベルクやブリッツにくらべやや淡い色調ながら、ここでも多彩に染めあげている。
 建築主はゲハーグ社、設計をブルーノ・タウトと協力者のフランツ・ヒリンガ一にゆだねた0敷地は8・4ヘクタール、総戸数は1,149戸、規模は1.5室から4.5室までだが、2室タイプがほとんどで、単身者か夫婦と子ども一人の家庭向けといえよう。当初入居者の3分の2は労働者、あとは事務職か役人クラスであったという。団地名は、1920年に死去した社会民主党の下院議員でドイツ労働総同盟初代議長カール・レギーンの名をとった。通り名にも社会民主党員の名がみられる。

 この団地には、「初めであり終わりである」2つの特徴がある。
 一つは、人口密集の既成市街地で高地価の土地に労働者向けの集合住宅を勅率的に建設するという新たな課題である。この点、フアルケンベルクやブリッツのように都心から離れた郊外とちがうし、団地の様子からも察せられよう。ベルリン市当局はシティ内に5階建ての建築を許可したが、「道路とブロック」の地区計画をもとめた。タウトたちは、新たな制約のもとで高密度の住宅建設をしながらも、田園都市的な構想をいかに実現するかに挑戦した。住棟の配列、ブロックの設計、緑の空間、色彩の効果にあわせ都市機能の利便とインフラ創出に苦心した。焦点は「市街地にありながら、植物にかこまれ日光を浴び広々とした空間を感じて暮らせる」住宅づくりであった。
 タウトは前出『ジードルング覚え書』で「4階ないし5階の家屋にはぼ1,200の住宅を収めようとするもので、しかもきわめて圧縮した地域であるだけに、衛生的開放性と通風性の印象を出そうとすれば、建築上じつに緻密な考慮をはらわねばならなかった。この場合は建築に着手する前、設計の考案に4年もかかった」と書いている(タウト全集第5巻、296ページ)。練りあげた設計にもとづき、住宅建設と同時に、都市機能でいえば、独自に洗濯場、集中暖房プラント等の施工、レストランやカフェもある商店街づくりにも着手した(洗濯場やボイラー室等は、いまバウハウス記録博物館に所蔵されている)。結果として、ヴァイマル期「最初の最も都市的でコンパクトな団地」と評される。
  もう一つの特徴は、ドイツ労働運動の指導者の名を冠したこの団地が、ベルリン都市建設参事官マルテイン・ヴァグナー主導のもと、労働組合・協同組合が連携して建設した「最後の大団地」となったことである。1931年にプリューニング内閣は緊急令をだし、住宅建設などへの国庫助成金をすべて廃止した。タウトはその前に、住宅の大量建設の画期的なイノベーションを提起し、人口密集のプレンツラオアー・ベルクに接する旧市街ぎりぎりの地区内での「都市的」団地建設を精力的に提案、ゲハーグ社に資金を出させた。タウトはそれ以前に市内に数多くアパートメントを建設しているが、市内に大規模な中層の労働者住宅団地はこれが最初であったし、国庫の助成をえての最後の社会住宅建設であった。タウトは「ドイツのジードルング建設は1926~30年に最高潮に達し、1932年に終わりを告げた」という(タウト全集第5巻、302ページ)。その意味でカール・レギーン団地はタウト作品のなかで特別な位置を占めている。
 ナチス時代になってこの団地は左翼、反逆のシンボルとされ、1933年に団地名を、1914年の西部戦線侵攻を想起させる「フランドル団地」Wohnstadt Fla. d. f.にかえた。1936年のオリンピックのさいには「イデオロギー上の理由から」建物のファサードの色は塗り替えられたが、構造物までは改変されなかった。1950年代に東ベルリン市議会は団地名を元にもどし、通り名もエーリッヒ・ワイナート通りのように、反ナチ運動の戦士たちをしのんで名を改めた。
 第2次大戦中の団地の被害は少なく、戦後すぐに損傷は補修されたが、応急的なものでしかなかった。戦後ベルリンは東西に分割され、ゲハーグ社は東地区に所有していたこの団地を失い、市住宅局の管理下におかれた。統一後ゲハーグ社にもどり、90年代半ばから修復がすすめられた。歴史的記念建造物として保護が確認され、原型をめざしての本格的な復元作業が完了したのは2005年である。その後、団地の所有はゲハーグ社から2006年に住宅協同組合BauBeCon Wohnenへ、17年には、馬蹄形住棟と同じドイチェ・ヴオー
ネン杜に移っている。
 雪が降りしきるなか団地を見てまわり、通りかかった団地に住む女性からは こんな話が聞けた。
 〇世界遺産になり、外部から人がきて住民はいくらか迷惑している。
 〇「壁」が崩壊して20年間に管理会社が4社もかわり、そのたび家賃が上がった。年金暮らしにはきびしい。
 〇でも世界遺産になって誇りに思っているし、生活にとても便利な場所である。
 〇世界遺産になって、住宅や環境保全についてかなりうるさくなった0
 〇特別に自治会のようなものやコミュニティ活動はない。
 ○空き家は皆無にひとしい。入居希望の待機者は多い。

『住宅団地 記憶と再生』 東信堂



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