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山猫軒ものがたり №25 [雑木林の四季]

春の招き猫 2

        南 千代

 家では、本物の猫であるウラが待っていた。ウラは、冬の間、朝ごほんを食べるとすぐ出て行き、夕方まで帰らない生活を続けていた。山の暖かい所にいるのだろうと思っていたが、ある日、日中不在のナゾがとけた。
 用事があって、五軒下の家を訪ねた。陽あたりのよい島田さんの家では、縁側もポカポカ。猫も幸せそうに、座布団の上で昼寝をしている。私は、用事ついでに島田さんに言った。
「お宅にも猫がいるんですね、あったかそう。うちにも、よく似た黒猫がいるんですよ」
「なあに、うちの猫じゃねえんだ。この所、毎日来て、ああしてひなたぼっこをしてるんだ。他の猫は人を見ると逃げるけど、このタロちゃんは人なつこくてよ。呼ぶと、こっち来るんだよ。どこの猫だかな」
 ウラだった。似ているはずだ。ウラは日中だけ、ちゃっかりと陽あたりのよい家の猫になっていたらしい。

 毎日八十個前後。鶏たちが順調に産み始めた卯は、庭先で売ることにした。「庭先玉子、売ります」の小さな立て札を出しておくと、次第に通りすがりの人や口コミで玉子のことを知った人々が買いに来るようになった。一パック六個入りで、三百円。一日に十パックほどの玉子は、午前中にはすぐに売り切れる。
 買いにきても、いつも売り切れ状態が続くと、客の方でも考えるらしい。
「もしもし、明後日、玉子を買いに行きたいので五、六パックとっといてくれませんか」
 電話予約が入るようになった。この様子でいくと、玉子で十分に生計が立てられそうである。そして、それは私たちの理想であった。
 借りた土地は、五百羽ぐらいまでなら飼えそうである。皮算用をしてみた。毎日二百五十個産むとして一日約一万二千円の収入、月で約三十五万円。食に関しては、米ができればほぼ自給できるから、これだけあれば充分である。
 万一不足なら、カメラとコピーの仕事もあるし、それもなくなれば職種を選びさえしなければ何をしても働ける。私たちは、誰からも二者択一を強いられているわけでもなし、撮影したり文章を書くことが嫌いになったわけでもなかったので、カメラとコピーの仕事も、来れば引き受けるといったカタチで続けていた。もとより、二人とも積極的に営業をして仕事をするタイプでは全くなかったが。
 夫は、ラッシュ時を外せば麻布のスタジオまで、高速道を利用して早ければ一時間半で着く。私は、電車で池袋まで一時間十分。この距離は、充分に通勤距離圏であった。
 フリーランスという立場もまた、都合がよかった。田畑や地元のつきあいで、忙しいときは、夫の場合は「その日は予定が入っています」、私の場合は「ちょっと今、忙しいのでその仕事は受けられません」とか「時間がかかります」と正直に言えば艮かった。もちろん、ずっと担当し続けている仕事ではそうはいかないこともあるが、そんな場合は、あらかじめ仕事のスケジュールが見えているので、予定が組める。
 畑は、とりあえず最初は一キロほどドつた地にある鶴先生の畑に、少しだけ間借りさせせてもらい、スタートすることになった。鶴先生は、もと学校の先生なので地元ではこう呼ばれている。
 畑は、鶴先生のお母さんであるバツばあちゃんがコツコツと耕している。明治生まれで、とっくに八十歳を超えた齢だが、その小さな体に背負いカゴをしょいこみ、いつもこコニコして畑を耕していた。
 野菜は、豆や芋など保存できる作物をたくさん作ろうと思わなければ、自給用なら意外に少ない面積で足りる。そのうち、地元に知り合いが広がれば、畑の話も出てくるだろう。私は、小松菜やホウレンソウ、大根、ニンジン、春菊など、食卓にのる機会の多い野菜から作り始めた。
 そうしているうちに、寄居の坂根さんの紹介で玉川村に、斜面ではあるが一反ほどの畑を借りることができた。
 坂根さんは、越生町から車で四十分ほどの寄居町で「皆農塾」という百姓志願の人たちと共に農業をやる塾を開いていた。山猫軒と同じ、自然卯養鶏会に入っていたことで知り合った。車で約三十分。玉川村の奥に借りた畑には、小豆を植えた。
 マメに通って世話ができる地ではないので、植えたら収穫までは草取りぐらいですみそうな小豆にしたのだ。それに、大豆からゴマ、ニンニク、落花生などまで、関東地区でできると思える野菜のひと通りは試してみたが、小豆だけはまだだったので、作ってみたかった。

『山猫軒ものがたり』 春秋社



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