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浅草風土記 №10 [文芸美術の森]

吉原付近 3

       作家・俳人  久保田万太郎 
 
                     

  わたしたちは角町の非常門を千束町のほうへ出た。――お歯黒溝がなくなって幾年、その代りともみられた千束堀(その大溝にそうした名称のついていたことを(つい最近までわたしは知らなかった)も覆蓋工事が施されて暗渠になったいまでは、そこはただ、いたずらにだだっ広いだけの往来をよこたえた、無味な、とりとめのつかない裏通りになった。
(嘗て、その蓋をした溝のうえに青いものを植える計画のあることをわたしは聞いた。が、間もなく、またそうした器用なことの出来るわけのものでないことが分って止めになったということを聞いた。真偽は知らない)が、また、そこのそうした往来にならないまえから住んでいる人たち、例えば竹細工だの、袋物製造だの、帽子の洗濯だの、自転車の修繕だの、あるいは比羅屋(びらや)だの、建具屋だの、せんべやだの、つつましく、寂しく、決して栄耀を望むことなしにその毎日を送っている人たちに(ここに限っての光景ではない。が、すぐその眼のまえにそそり立った廓内の大きな建物に対して、何というそれが不思議な取合せをみせていることだろう)立交って、このごろ、暖簾を下げたり、ビールの瓶を棚の上に並べたりしたような小料理屋のちらほらそのあたりにみえ出して来たことをわたしは何とみたらいいだろう? 勿論その暖簾のかげに、棚のまえに、白粉の厚い女たちが立ったりすわったりしているのである。……心許なきは半年あと一年さきである。
 わたしたちはすぐその往来を左へ切れ、おでんやだの汁粉屋だのの煽情的な真っ赤な提燈(いかにそのいろの所柄の夜寒さをおもわせることよ)の下っている細い道を表通りへ出た。――わたしたちはみんなまだ夕飯を食べていなかった。――なればこそどこへ行こう、何をたべようと、わたしたちは、そこもまた区画整理の完了して以前とはみ違えるように広くなった往来を、前方から後方から間断なく来る自動車のヘッドライトを避け避け熱心に評議した。
 やがてその評議の、仲見世の「金田」ということに決着し、それなら少しいそぐ必要がある、あすこのうちは店を閉めるのが早い、そうしたことをさえお互のいいかけたとき、急にわたしの連れの一人は嘆息するようにいった。
「お酉さまの帰りといえば、だまってむかしは大金だったもんだがなァ」
 と、おなじわたしの連れの一人はすぐそれに同じた。
「あのうちさえあればいさくさはないんだ」
 ……というのはいうまでもなく田圃の「大金亭」のことである。公園裏にあったあの古い鳥料理屋のことである。もと浅草五けん茶屋の一つ、黒い塀をたかだかと贅沢にめぐらした、矮柏(ちゃばひば)が影のしずかに澄んだやや深い入口への、敷石のつねに清く打水に濡れていたその表構えについてだけいっても、わたしたちは「古い浅草の黄昏のようなみやびとおちつき」とを容易にそこにみ出すことが出来たのである。一ト口にいえば江戸前の普請、江戸前の客扱い、瀟洒(しょうしゃ)な、素直な、一トすじな、そうしたけれんというものの、すべてのうえに、それこそ兎の毛でついたほどもみ出すことの出来なかったそのうちの心意気は、空気は、どういう階級の、どういう育ちの人たちをでも悦喜させた。そうしたうちをもつことを「浅草」のほこりとさえわたしは思った。――が、惜しくも震災でそのうちは焼けた。――そのままそのうちはわたしたちの前からすかたを消した。 ――古くいたそこの女中の一人に、その後、築地の「八百善」でゆくりなくわたしは邂逅(めぐりあ)ったりした。
「行こう、じゃア、大金へ」
 二人にこたえてわざとわたしはいった。 ――というのは、もとのそのうちといかなる関係をもつうちか知らない、おなじ「大金亭」という家名の、もとのうちで調理したとおなじ種類のものばかり調理するうちの、富士横町の裏通りに出来たことをわたしはおもい出したから……  が、それ以上わたしは説明する必要はなかった。だれもその存在だけは聞いて知っていた。そうしてわたしたちの気紛れはすぐその「金田」説をそのうちに搗替(つきか)えた。すなわちわたしたちは、それと一しょに、いまはただわずかにそこの交番の名乗にだけ名残をとどめている「小松橋」を象潟町のほうへ急にまた左折した。――うッかりしている間に雲はすっかり切れ、さえざえとあかるい月の光は水のように空に満ちていた。わたしは喜んだ。なぜなら熊手はもたなくっても、唐の芋は下げなくっても、黄金餅は買って来なくっても、それによって、その冷え冷えとした「月夜」をえたことによって「酉の市の帰り」という心もちをはッきり自分に肯うことが出来たから……。「年の市」の雪に対して、「酉の市」はつねに月である……。
「が、いけない、もっと陽気が塞くなくっちゃァいけない」
 わたしの連れの一人はいった。
「そうとも。――もっと下駄の音が凍てて聞えなくっちゃァうそだ」
 すぐまた一人が賛成した。
「そんなことをいったら吉原に菊の咲いているのが一番間違っている。――あれじゃァ秋の光景だ。――『冬のはじめ』でなくって『秋の末』だ」
 それに対してまたわたしはいったのである。「酉の市」というもの、いままでわたしにとって冬の来たという可懐(なつか)しいたのしい告知以外の何ものでもなかった。「酉の市という声をきくとすぐに、霜夜ということばを、北風ということばを、火事ということばを誰もが思い遣った」の「霜のいろと一しょに寒さは日に日に濃くなり、ほうぼうにもう夜番の小屋が立って、其時分から火事の噂が毎晩のように聞えだしました。――ことに今年は三の酉まであるから火事が多いだろうということがいつものことで誰にも固く信じられました」のと、いままで始終そうしたことを書いて来たわたしである。
 本街道はいかほどにぎやかでも、一卜足そこをあきへそれるとうそのようにしずかになるのがそうした晩(「年の市」の場合でもそうである) の習いである。象潟警察の角を一トたび富士横町へ入ると、月の光にうかんだ広い道はただもう森閑とすみずみまで霜げていた、いッぱしもう更けたように火の番の拍子木の音ばかり高かった。――間もなくわたしたちは、大ていこのあたりと当てずッぽうに曲った細い道の、あかりのぼやけた、人通りの全くない中に、めざすその「大金」の――以前のそのうちとは似ても似つかない恰好の、どう贔屓目(ひいきめ)にみてもむかしのそのうちの後身とはおもえない作りの、一卜坪にも足りない土間のうえにすぐ階子口のみえるといった風の、浅い、むき出しの、ガランとしたその「大金」の門口をみ出した。――宵からまだ一ト組の客もなかったらしい心弱さを、月の中、もり塩のかげは蒼くしずんだ。
 わたしたちは三間ほどしかない座敷のその一つを占めた。わたしたちは、ごまず、やまとあげ、やきつけ、そうしたむかしながらの言い方の、むかし可懐しいしなじなの運ばれて来るのをみながら盃をふくんだ。――しずかに、寂しく……。
 で、わたしは、もう一度そこで「吉原」を思った。

『浅草風土記』 中公文庫

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