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子規・漱石 断想 №4 [文芸美術の森]

子規・漱石 断想 №4
  司馬遼太郎・「雑談『昭和』への道」制作余話     栗田博行
   (司馬遼太郎さん追悼のため、再度予定を変更しました)

はじめに
「日清戦争従軍を強行した子規の心意は?」という関心から再開した当欄でしたが、大江健三郎さん追悼に続けて、同じく子規愛の日本人の先達・司馬遼太郎さん追悼のため、また予定を変更させてください。(今年は、司馬さん生誕100年にも当たります。)
 前回述べましたが、筆者が郷里のNHK松山で「人間・正岡子規」を企画した時、シリーズの出演者として司馬さんを推薦してくれたのは大江さんでした。企画の段階で相談にうかがった時、「今の世に子規のような人を探せば、どんな人でしょう?」と質問したのでしたが、一拍考えられてのち、「…司馬遼太郎さんみたいな方じゃないかナ…。そうだ、司馬さんにもお願いしてみたら」と、司馬さんへの出演交渉を後押ししてくれたのでした。そして昭和56年、子規記念博物館・開館記念講演のために松山に来られて、お二人は初めて顔を合わせられたのでした。その機会に、山本健吉さんも加わった「今子規をわれらに」と題した鼎談番組に出演していただきました。子規を語って意気投合され、収録後の酒席で年来の友という雰囲気で会話を楽しんでおられた司馬・大江お二人の姿が目に浮かんで消えません。お二人とも文学者としての根っ子に、子規が存在していた点で通い合っていたと思います。司馬さんの場合、「坂の上の雲」はその結晶のひとつと言えましょう。
 松山で子規を語っていただいた5年後(昭和61年)、筆者はNHK大阪局で「司馬遼太郎 雑談『昭和への道』」という教育テレビ番組を企画し、司馬さんに45分のひとり語り12回を引き受けていただいたのでした。司馬さんが亡くなられて2年後の平成10年、その内容は全編書き起こされてNHKブックス「昭和」という国家として出版されました。
 掲題の拙文は、その中に掲載していただいた番組制作の裏話です。拙文にも12回の番組での語りにも子規のことは語られていません。しかし、明治時代にあって子規がその従軍体験から素朴・根源的に着眼した日本人の「戦争と平和」という巨大な主題に、司馬さんは「昭和」を兵としても苦しんで生きた日本人として、全力で取り組んでくださったと思っています。その点で、文意は当欄と拙文はつながっています。予定変更を重ねることをご了解ください。
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         司馬遼太郎・「雑談『昭和』への道」制作余話

 すみれ色の空に、三日月が浮かんでいる。
 かりに今、司馬遼太郎の名で書き記され、発言・記録されたあの膨大な言語活動の全てを
集めたとしても、そこに描き出されるのはまだその三日月の弧のようなものにすぎないのではないか。その弧が孕む球体の大きさを、みんなでもっと顕らかに見えるものにしたい。その時、第一の手懸かりはその弧をなすものだが、あわせて司馬遼太郎に接した者たちの記憶も可能な限り集めるといい。それらを合わせて、あの透き通って張りつめた球体を視えるようにし、それを成立させていた重心の深さを解るようにしたい。そしてどのようにして、その重心点のあたり( 人なつこい少年の笑顔と青年期の憂悶の表情が重なって見えるあたり)から、重力に逆らってあの言葉と態度が放射し返されてきたのか、その機微を深く識りたい。そこでやっと、日本人・福田定一と作家・司馬遼太郎で構成された巨大な人間像のなかで動いていた〝根源的主題意識〟とでもいうべきものに近づけるよぅになるのではないか:…・。読むものの心を励ます数多くの人間像を日本人に共有させてくれた司馬遼太郎。われわれは今逆に、司馬遼太郎の人間像をこそ、共有したいのではないか…。
 仕事の記録としての小文をお引き受けして、そんなヴィジョンと願いの入り交じったものが胸中を走る。与えられた時間から、この稿がほとんど記憶をもとに書かれるものであることをお許しいただきたい。

4-2.jpg 「あのね、きのう決めた題の上にザツダンとつけてとのことよ」。みどり夫人から、司馬先生の意向を伝えるそんな電話をいただいたのはたしか昭和六十一年一月一七日の昼頃だったと思う。まだ昨夜の宿酔が残っていた。
 その前日、昭和六十一年一月十六日。われわれ三人((企画、筆者。担当デスク、中川潤一。番組ディレクター佐多光春いずれも当時NHK大阪放送局、通称BK勤務)は、初めて東大阪の司馬家に伺った。
 前年の昭和六十年の四月、教育テレビに年間を通して何らかの出演をしていただけることが決まつた。勇躍その中身を決めるタタキ台(企画案〉を三人で作り、次々と司馬家に送った。しかし返事が戴けない。その状態が半年余り続いた。追い込まれ、ジリジリして来た年の暮れ。単身下宿で独酌しながらNHK特集「戒厳指令〝交信ヲ傍受セヨ〃2・26事件秘録」を見ていた私の中に、忽然とある着想がうまれた。「そうだ、昭和だ!」あぐらをかいていた背筋のあたりに、〝司馬遼太郎よ、昭和を語れ″という挑戦的な黝ずんだ気分が走ったのを憶えている。翌日私は中川・佐多両君にこの着想を話した。
 「先生に〝昭和″というテーマをひとり語りでというアイデアを、もうこの際電話で投げてみようと思うがどうかね。要するにオールオアナッシング。これでだめなら司馬遼太郎年間出演の話はもう無い。一方、OKがもらえればそれなりの心構えがいる。そういうアイデアだ」。ふたりのしり込みを心配したが、一も二もなく彼等は賛成だった。彼等にすれば、額を集めて粘っこく坤吟した末に結果は不毛に終わるかも知れないタタキ台作りという作業に、もう一回取り組まなくても済むということもあったのかもしれない。
 ふたりの態度に励まされすぐ司馬家に電話を入れた。いつも通りみどり夫人が出られた。主旨を申し終えると、受話器の向こうに、一瞬柔らかい沈黙が生まれた。そして「いいの? 栗田さん。乃木の時も大変だったのよ」。言外に、そのことは解っているのね、そしてそれでもあなた達はいいのね、という穏やかな念押しと心遣いが感じられた。「解ったつもりの上での、お願いです。一度、先生にお諮りいただけませんでしょうか」「じゃそうするわ。いいのね」。そんなわずか数分のやりとりだった。大事なところを粗野に踏み越えてしまったのではないかという迷いが無かった訳ではないが、ともかくもう後日のご返事を待つしかない。別件に向かう気分になりかけた矢先、電話が鳴った。夫人からだった。「さっきのこと、ゼヒそうしましょとのことよ。よかったわね」。お声の明るさに、交渉成立おめでとうという響きを感じた。「それで、出来るだけ早く打ち合わせといってるけど、どうしましょ?」。その間何分くらい経っていたのか。ともかくアッケに取られるような速さで、半年余り難航していた企画が「〝昭和〟をひとり語りで」ということに決まった。
4-3.jpg その年ご夫妻は熊本で年末年始を過ごされるとのことで、帰阪後年明け早めにお訪ねするということに決まったのだった。

 日本はなぜ 「昭和」という破滅への道を歩んだのか?
 午後三時にお訪ねし、夕方六時すぎに辞去するまでの三時間余り。歴史を書いてきた者の務めとして取り組んでみますという穏やかな表明の後、「戦後四十年考え続けてきた」というその思索のポイントがとどまることなく展開された。お話は本書一章から三章にあたる内容を中心に流れたが、熱が入ってくると、一瞬は話題の飛躍と思えるような独特の断言が繰り出された。「若い人がマネーゲームに勤しむ。働いて、つまらない収入を得ることの大事さを誰も教えない。これでは社会は壊れてしまう」「繁栄は続きません。産業の神様は必ずよそへ移ります。その時、落ち着いて老いさびたクニに、日本をどう作って行けるのか……土俗の日本人として、真剣にそれを考えないと」。(こんな飛躍と思えるような言説が、実は司馬遼太郎の重心点から発する厳しく真摯な思考の連続としてあらわれていたのだということを、今たくさんの人々が思い返しているのではないだろうか)。
 この打ち合わせの終わり際、「じやあ題をどうしよう~」というお尋ねがあり、「今日うかがったお話は先生としての〝昭和への道〟という……」と口ごもりかけると、「ア、それはいい。それにしましょう」と、一挙にタイトルが決まるところまで進んでしまった。辞去する際、玄関まで送り出して下さりながら、「昭和を語れ、といってくるジャーナリズムが居るのか、と思ったよ」とひとこと。挑戦的な気分まで見透かされていたかとヒヤリとしたが、この一言は、この仕事が終わるまで、われわれを根本から励まし続けるものとなった。BKに帰着した後われわれはたちまち激しい職場酒になってしまった。これからの緊張のともなう仕事への小さなチームの旗揚げ式の気分が底にあった。あっという間に一本半が空になった。
 その宿酔の残る頭への夫人からの電話だった。とまどいながら 「ザツダン。〝雑談〟 
のことですね」とご返事し、たちまち粛然とした思いに捉われた。
 昨夜辞去した後、われわれが感奮し、酔い、書生のように吠えていたその時間。ひと
り、この主題での昭和六十一年の同時代社会への発言の意味を自問自答し、影響を測り、その宣明の仕方につき思い巡らし、最も熟した結論に行き着いていた人間の像が見えた気がしたのである。「わかりました」とお答えして、タイトルが決まった。司馬遼太郎・雑談「昭和」への道。〝雑談〃。 さまぎまな点で「自由な言論」の謂だった。
 これについて、後日談があった。数日後、私は当時の上司、BK制作部長岩下恒夫氏に
このことを報告した。「みどり夫人からのそんなお話もあり、〝ザツダン〟とつけます」。一拍あって 「君は、それをお受けしたのか?」 「はあ、先生がそういわれるのですから」。予想どおりの誰何を、予定稿で切り抜けたということである。岩下部長がいいかけたのは、〝司馬遼太郎が昭和を語るというほどの番組に、「雑談」などと冠していいのか。かりに司馬さんがそうでも、お受けしないのが君のとるべき態度ではないか…〃というようなことだったろう。このことを後に「お受けしたのかと上司に叱られましてね」とお話すると、先生はあのニッコリとした笑みを浮かべて、「ソリヤ、古―い、サムライみたいな人のゆうことやな」と愉快がられた。 

 収録開始。素材録画は十二回すべてBKのスタジオセットで行われた。録画も放送も主
題が連続する三回分をワンセットとし、年間四回に分けて行った。その第一回録画がいつだったか思い出せない。鮮明に思い出すのは、スタジオに現れた司馬遼太郎が全くの手ぶらだったということである。
何事かを語りはじめ、語り続ける。その運動は、自分が終わるという意志を働かせるまで
連続して止まない。生身の聴衆がそこにいるわけではない。三台のカメラがこちらを向き、言葉もそれを発している自分の姿もすべて記録している。そして昭和六十一年代の同時代社会の全域にやがては放たれ、送り出されていく。
「昭和」という主題について一人っきりで行うそのような行為に、司馬遼太郎は一片のメ
モも手にせず臨み、それを全十二回やり切ったのである。
4-4.jpg あの「座談の名手」司馬遼太郎は、この仕事では言いよどみ、口ごもり、言い足し…、小さく絶句することさえしばしばだった。あの、貼りついて消えないかと思われた人なつっこい少年の笑顔が消え、戦争を体験した世代の、ざらりとした魁偉な相貌を現す瞬間が度々あった。いつもは快活で穏やかな話し手の声が荒々しくウラ返りかけることさえあった。
 番組はおのずと、司馬遼太郎の精神の動きの同時進行ドキュメンタリーとなった。そして撮り当てたのは、その語り手の正直さと誠実さと真剣さだった。第一回「何が魔法をかけたのか」の終了部。四十分を超えて苦々しい「昭和」を語り継いだのちに、「口で言うだけでは、皆さんにこの実感は伝わっていないと思います」と述べ、「しやべること」を虚しがり、「……小説の形で書くべきか、しかし小説も…」と気迷いを見せ、そこでいったん発言者としての義務を自分に呼び醒まして、「まあ、二度あることはないと思います。今、統帥権なんてないわけですから」と断言。その上で、もう一回その発言をしている瞬間の自分の想いを吐いてしまう。「しかし、この記憶を感覚として伝えたいんですけれど…私は非力ですなぁ…」と。ここには、ひとりの男が焦燥に身を操む姿が記録されている。「…私は非力ですなぁ…」というひとことに、どう向き合えばいいのか。
 語るという行為の中の司馬遼太郎が、自己の内面を開示する正直さに胸を突かれた。ま
た、不断に発語しながら、メッセージが相手の内部に届いているかどうかを配慮し続ける姿勢の緊張度の高さ、つまりは聞き手への誠実と主題への真剣さに心打たれた。
 この第一回の冒頭では、司馬遼太郎は作家としての自分の創作の根源を正直に開陳して
いる。この上もなく平明なことばで。「敗戦のときが二十二歳でした」「なんとくだらないことをいろいろしてきた国に生まれたのだろうと思いました」「昔の日本人は、もう少しましだったのではないか」。それが「私の日本史への関心になった」というのである。BK副調整室で始まったばかりの録画画作業に目配りしながらこれを聞いた時、私は、それまで解らないでいた人間・福田定一の作家・司馬遼太郎への歩みが、沁みるように腹に落ちる気がした。焼け跡に降り立ち「こんなことではなかった日本」を思い始めた青年・福田定一。しばらくして彼は「もう少しましだった日本人」の発掘に向かう。それは可能だった。「昔の人」の中に……。
 そのことによって彼の精神は躍り出す。彼は〝司馬遼太郎〃となっていく。その作業を繰り返し、彼は『坂の上の雲』の時代までは来ることができたのだ。しかしそこから先彼は、一歩も前に進めない。そのような作家だった司馬遼太郎が「昭和」を語る作業が、今このスタジオで始まってしまつた。それは、これから一年間続く。自分は大事なところを粗野に踏み越えてしまったのではない か、という思いがまた胸を走った。
〝雑談″と冠し自由でのびのびとした言論を目指したが、「昭和」への道を語ることは、
司馬遼太郎にとって苦しく晦渋な精神の力行となった。「栗田君、〝昭和〃ばかりしやべっていたらハラワタが腐るよ。たまには元気のでることも話させてくれよ」。そう言って「昭和」という主題から遁走したことさえあった(付論1)。しかし彼は、結局それを自ら捨てた。一日にして主題に復帰。あらたな撮り直しを申し出てくれて、われわれをビックリさせた。
 メモ一片手にしない自由な言論は、きびしく真剣な内心の乗り越え作業の連続だったはずである。最終回「自己解剖の勇気」の最後「十二回、よくしやべったものだと思います」という正直なひと言の含んでいる重さに目をとめていただければ、と願う。

 リアクションの第一号は放送前にやってきた。五月十九日。夜の第二回の放送に備えて気を遣り始めた夕刻、ふと見ると私の机上に一枚のファックスが載っていた。「私は陸軍騎兵としてノモンハンを体験した者……今夜の番組にこのファックスで参加したい……司馬遼太郎氏は『白血球』を血液に持っていられるのだろうか……日本民族体をむしばむ病原菌の媒介者と考察するが如何か……」。よくある論法が慇懃無礼な文章で綴ってあった。住所、氏名、電話、ファックス番号までキチンと記してあった。実はこの日の昼間、告知番組を数回放送した。それは第一回の中の、ノモンハンに触れた次の言葉を材料にしていた。
「日本軍の死傷率は七五パーセントにのぼりました。引くも進むもなく七五パーセントが死に、傷つきました。死傷率七五パーセントというのは世界の戦史にないのではないでしょうか。よくぞそこまで国民教育をしたものだと思います」。
 前半には、佐多ディレクターが発見してきたロシア側撮影のノモンハン戦場のニュースフィルムの映像を被せた。ひとりの日本軍兵士が逆さまに土壌にずり落ちる。ずり落ちる様子に命が絶えよとうとする瞬間であることが感じられる。そのあと司馬先生の顔となって「よくぞそこまで国民教育をしたものだと思います」とつなげた。戦後四十年考えて来た末の憤りが、ナマに噴出しているような部分だった。
 告知番組としては成功し、インパクトの強い内容にはなっていた。しかし三十秒である。それがこの日、せいぜい二回放送されたろうか。それでもうこのリアクションである。「やっぱりか…」と思った。「もうこんなのが来たよ」と中川、佐多両君にファックスを見せた。河井継之助の風土を郷里とするデスクの中川君は「来るんでしょうねエ」と呟いて、そのタフな面差しを濃くした。担当チームで一番品のいい実務型インテリの佐多君は「僕のステプレが成功しましたね」とキラキラとした表情を見せた。怯まない彼らが嬉しく、一段気が引き締まるのを憶えた。。「コレ返事しない線でいくね」という私に、「イイんじゃないでしょうか」と中川君。こうして、オンエア前に昭和六十一年の同時代社会との実際の接触が始まった。
 オンエアまでまだ時間があった。その間を利用してみどり夫人に連絡をとった。このような特異なタイプの反響が司馬家にもあるかもしれないことが気になったのである。この仕事の場合、こんなことも連絡しあった方がいいのではないか。今夜の放送からいいも悪いも反響はお伝えし、司馬家にあった反響も両面お教えいただいたほうがいいと思うが、と相談申しあげた。「ゼヒ、そうしましょ。そうして下さい」とのご返事だった。われわれは組織の中にあるが、司馬家は社会の中に裸で浮かんでいることを思い、胸が痛んだ。
 昭和六十二年三月三十一日。全ての放送が終わった。切迫した気分で司馬家に車を走らせるようなことも起こったが、結局は全て無事終了することができた。全期間を通じて戦争体験世代を中心に素晴らしい手紙や葉書、モニター報告が寄せられた。その最後の十数葉をお送りする時、「これらが、それだけぶん日本人の言論行為の成熟であることを喜んでいます」という旨申し添えた。後日先生にお会いした時「ほんとうに市民の方のご意見
はりつばでしたねエ」と、あの人なつこい少年の笑顔が輝いた。

 それから九年。
 先生の訃報に接した。
 新開にみどり夫人の言葉があった。「司馬遼太郎はいつもいつも、この国の行く末を案じ
ておりました」。沢山の追悼の文章の中で野坂昭如氏の 「司馬さんは〝この国への想い 〟を宿癖となされた。それが破裂して亡くなられた」とのひとことが、こたえた。みどり夫人の談話取材記事から「なんだかたいそうなことになってしまって、もっとさりげない生き方ってないかしら」「ええねん、これで」という会話が晩年ご夫婦の間にあったことを知った。
 それから二年。あの笑顔を見てから十一年。
 すみれ色の空に〝宙に浮かんだ風船″がみえる。宙に浮かんでいるのは悲しみがいっぱ
い張りつめているからだ。それでも、その風船にお願いする。
 先生に「ええねん、これで」と言ってくださるようお取り次ぎ下さい、と。
   平成十年三月

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おわりに
 以上、昭和61年から62年にかけてNHK教育テレビで放送した「司馬遼太郎 雑談『昭和への道』」の、制作裏話でした。NHKブックス「昭和」という国家として出版するにあたって、お求めいただいて執筆したものです。司馬さんが亡くなられて2年後の平成10年に記したもので、お世話になったみどり夫人は御健在の頃でした。自ずとみどりさんに呼びかけるような結びになってしまいましたが、そのみどりさんも、平成16年に逝去され、今は亡き方です。ここに心より哀悼の気持ちを捧げます。
 番組は45分の語り下ろし12回となりましたが、出版されたブックスの内容12章は、そのまま番組タイトルと同じになっています。以下にそれをご紹介しておきます。手もとにある、平成30年発行の21刷りのブックカバーの文言を活用させていただきます。
    なぜ無謀な戦争がはじまったのか? 貴重な「司馬昭和論」!
               国民作家が ‷魔法の森の時代″の謎を解く
とのリードコメントに続いて
    リアリズム・合理主義・愛国心を失った「異様な時代」を解剖する
とあり、全12章が紹介されています。
 第一章 何が魔法をかけたのか  第二章 ‷脱亜論″私の読み方                     
  第三章 帝国主義とソロバン勘定  第四章 近代国家と‷圧搾空気″―教育勅語
 第五章 明治政府のつらさー軍人勅諭 第六章 ひとり歩ききすることば」―軍隊用語
  第七章 技術崇拝社会を変えたもの  第八章 秀才信仰と骨董兵器
    第九章 買い続けた西欧近代  第十章 青写真に落ちた影 
     第十一章 江戸日本の多様さ  第十二章  自己解剖の勇気

最終部に、拙文に先だって歴史学の田中彰さんのお寄せくださった〈感想〉「雑談『昭和』への道」のことなど が掲載されています。以下は、その結びの言葉です。
    本書を、とりわけ、つぎの時代を担う若い人びとに、
               ぜひ読んでいただきたいと思う。
筆者も心からそう願うものです。
 拙文の一節に、
 〝雑談″と冠し自由でのびのびとした言論を目指したが、「昭和」への
      道を語ることは、司馬遼太郎にとって苦しく晦渋な精神の力行となった
と記しました。一例をあげますと、司馬さんは昭和20年の日本の破局について
「まあ、二度あることはないと思います。今、統帥権なんてないわけですから」
                     (第一章 何が魔法をかけたのか)
と断言したうえで、
 「しかし、この記憶を感覚として伝えたいんですけれど私は非力ですなぁ…」
と続け、こころを震わせる風に絶句したことがありました。この絶句を司馬さんにもたらしたものは何だったのか…統帥権という魔法の杖の無い平和憲法下にあって、二度あることはないと断言したうえで、あのとき何がこみ上げてきたのか…。私は非力ですなぁ…と言葉をつまらせた衝動は何だったのか。
 それから37年後の今、プーチンロシアのウクライナ侵攻が止められません。核戦争の危機さえ想わざるを得ない人類世界の現状を、冥界にあって司馬さんはどう睨み据えているのでしょうか…。

 令和5年5月G7広島サミットが開催されました。記憶に残したいものの一つとして、ゼレンスキー大統領の「ウクライナを今の広島のように復興する」という言葉がありました。それとともに、サミットの合間を縫って実現した、韓国人原爆犠牲者慰霊碑への、韓国伊大統領と岸田首相の献花を、筆者は挙げて置きたいと思います。

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 慰霊碑は昭和45年に平和記念公園の外で建てられ、平成11年に平和記念公園内に移され、これが初めての日韓首脳揃っての訪問でした。在日韓国人被爆者10人の方がこれを見守ったのでした。慰霊碑には、判明している死没者約2800人の名簿が納められているとのことです。
 被爆後78年、碑建設後53年の歳月を経ての事でした。日本近代の近隣アジアに残した負債に鋭敏だった司馬さんが、この情景を目にするとすれば、どんな思いを胸中に浮かべるのでしょう…。
 当ブログ第一回で紹介したのでしたが、子規が東京湾に立つ巨大な平和の像を空想したのは、明治31年元旦でした。そこから400年も後の東京湾で、その像は修復を待つという内容の文章でした。
国家・戦争・平和…。限界に来た地球温暖化・資源枯渇…。コロナ禍の下、核を持つ人類が直面してしまった巨大な主題をめぐってさ迷い続ける、戦前の昭和生まれの老人の想念の飛躍・混乱・停滞にお付き合いください。
(令和五年八月)
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 ※次回は当欄再開時に予告した主題「日清戦争従軍を強行した子規の心意」に戻るつもりです。ただ体調の不安定が続いており、アップ予定を申し上げかねています。しばらく今回記事を掲載継続します。お許しください。



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