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浅草風土記 №9 [文芸美術の森]

吉原 2

        作家・俳人  久保田万太郎

     二

 …正面に高く「沢の鶴」醸造元の大きな提燈の列が暗い中ぞらを画っている。両側には、木馬館、松竹館、三友館、大勝館、そうした公園の活動写真の小屋の名を一つ一つにしるした、玉子形の、やや小ぶりな提燈が透きなく並んでいる。――その提燈のあかるい光の中に犇((ひし)めく群衆、真っ赤な中へ真っ黒に大頭と大きく書いた看板、金箔うつくしい熊手、鳥居に立添えたカサカサの笹、客をよぶ商人たちの姦しいわめきにまじる神楽の音……。一ト足「大鷲(おおとり)神社」の境内へ入ると一しょに、辛うじてわたしたちは、それまでの凡常な「縁日」意識からすくわれた。
 と同時にわたしたちは人波にもまれ出した。いままでのように安閑とあるいてはいられなくなった。奴、万盛庵、梅園、来々軒、一仙亭、透きなく並んだ両側の提燈の記名は間もなくそう「活動写真」から「飲食店」に移って行った。実だの、小楽燕だの、清吉だの、浪花ぶし語りの芸名が時を得顔にそのなかに立交っていた。――と、急に、神楽堂の近くまですすんだとき、ピッと前方から逆にわたしたちは後ろへ押返された。――危くわたしたちはふみ留った。
「押しちゃァいけない、押しちゃァ……」
 みおつくしのように立った巡査たちは声を唆らしていった。赤い筋の入った提燈がどこにもふり廻された。
「女はこっちへ来い、此方へ。~危いから此方へ来い」
 混乱 -
 連れの名を呼交わす声。
 賽銭を投げる音。
 子供の泣く声。
 わたしはそのまま神楽堂の下を左へ切れた。、わずかにその渦中から抜出すことの出来たわたしたちの行く手に立ちふさがった熊手店。――五彩映(まば)ゆい熊手店。――狭い道を圧してずらりと両側に立並んだその店々の小屋がけの光景こそむかしに変らない光景である。むかしながらの可懐しい光景である。――わたしたちは……すくなくもわたしは、その瞬間.電機をわすれ、自動車を忘れた……今を人の出さかりと、ただもうわめき立てる商人連の声をいっそ夢みごこちにわたしは聞いたのである。
 が、そうしたわたしの心もちはすぐ冷え返った。「検査場の門」から吉原の廓内へ入ったことによって惨めに冷え返った。なぜならそこに「天柱くだけ地経かくるかと思はるゝ笑ひ声のどよめき」も感じられなければ「さっさ押せ\と猪牙がかつた言葉に人波を分くる群」もみ出されなかったからである。「河岸の小店の百噛りより、優にうづ高き大雛の楼上まで、絃歌の声のさま\に沸き来るやうな面白さ」の、そうした光景を廓内のどこにもわたしは求める事が出来なかったからである。――たった一けん、大門に近いとある引手茶屋の店さき、閉めた障子の硝子越しに一人のお酌の大鼓を火鉢の上にかざしているのをみた以外には、三味線の音、太鼓の音一つわたしは聞かなかった。座敷へいそぐ芸 妓の姿一つわたしはみなかった。
 これよりさき「検査場の門」へ入ろうとする際で道は二つにわかれる。一つは、「吉原へ」である、一つは、「公園へ」である。犬鷲神社の境内を流れ出た人たちは原則としてその前のみちをとるべきだとわたしは信じていた。すくなくもわたしの子供の時分にはそうした「慣例」が作られていた。が、いまはもうそうした「原則」も「慣例」も無力になったことを、その証拠を、昨夜まのあたりにわたしはみた。-わたしたちのようにそこからそのまま、「検査場の門」 へ入るものは実に其うちの三分の二 いいえ、もっと少いかも知れなかった。後ほ去んな有無なく「公園\のほうへ流れ去る群衆だった。――しかもそこには、中ぞらに張りわたされた一本の綱の真ん中に、「公園近道」そうした文字の、墨痕淋滴(ぼっこんりんり)、夜目にもしるく書きなぐられた紙片のしずかにしらじらとぶら下っていることを誰も不思議と感じないのをどうしよう……。
「たけくらべ」の出来たのは明治二十七年から八年にかけてである。明治二十七年といえばわたしの六つのときである。「角町京町処々のはね橋より」とあるように非常門の外でさえなお別橋の行きかいだった時分である。だから「何とみたらいいだろう。われわれ、この光景を?」とそうは正面を切るもののその光景をわたしたちの知ろうわけがない。でも物ごころがついてからは毎年欠さず書人にして(ということは、どこにもこれという遊
び場所をもたなかったそのころの浅草の子供たちは、正月を除いて、夏は三社の祭礼と富士市、冬はこの酉の市と年の市とをどんな事ででもあるように、その日の近づくのをそれぞれたのしみにしたものである)あるいは親たちと、あるいは店のものたちと、やや長じては友だち同士、必ずわたしたちはその人込のなかへもまれに行った。だからそのことは、わりとはッきりした印象をわたしたちは残している。1それだけわたしたちにすると、
大鷲神社の境内ほどのことはなくっても、とても仲の町、押しッ返されないまでもたやすく通り切れることではあるまいとおぞくもそう思ったのである。-いいえ、「張見世(はりみせ)」だの「積夜具」だのといったもののあった時代のことをおぞくもわたしたちはおもい浮べていたのである。                               
折からの御大典奉祝、廓の中にはどこにも紅白の布で巻いたはしらが立ち、花暖簾(はなのれん)といった感じの、天地を紅と浅黄とで染めた鶴と亀との模様の幕が張りまわされ、そのうえに提燈の火があかるく照りはえていた。そうして仲の町には、市松の油障子、雪洞(ぼんぼり)、青竹の手摺。――丹精を凝らした菊の花壇が出来ていた。――が、いえば三々五々、何の混雑もみせずおもいおもいのしずかな歩みを運んで行く人影は、それぞれの人かげは、あまりにその華やいだ光景を裏打しなさすぎた。――ということは、その空しい、白け切った、浮足立った感じの行きかいの中に、その花壇の菊のいろは越せ、下葉は枯れ、茶屋々々の門の番手桶の濡れは乾いていた。-――あかるい燈火のかげをふいてわたる冷めたい夜風をわたしは襟もとに感じた。
 …忘れられた吉原よ

『浅草風土記』 中公文庫



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