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郷愁の詩人与謝蕪村 №13 [ことだま五七五]

晴信 10
       詩人  萩原朔太郎

閣(かく)に座して遠き蛙(かわず)をきく夜哉(かな)

 「閣」というので、相応眺望の広い、見晴しの座敷を思わせる。情感深く、詩味に溢あふれた名句である。

これきりに径(こみち)尽きたり芹(せり)の中

 塵芥に埋れた径(こみち)。雑草に混(ま)じって芹が生えているのだろう。晩春の日の弱い日だまりを感じさせるような、或る荒寥(こうりょう)とした、心の隅の寂しさを感じさせる句である。

古寺(ふるでら)やほうろく捨てる芹(せり)の中

 荒廃した寺の裏庭に、芥捨場(ごみすてば)のような空地がある。そこには笹竹(ささだけ)や芹などの雑草が生え、塵芥にまみれて捨てられてる、我楽多(がらくた)の瀬戸物などの破片の上に、晩春の日だまりが力なく漂っているのである。前の句と同じく、或る荒寥とした、心の隅の寂しさを感じさせる句であるが、その「寂しさ」は、勿論厭世(えんせい)の寂しさではなく、また芭蕉の寂びしさともちがっている。前の句やこの句に現われている蕪村のポエジイには、やはり彼の句と同じく人間生活の家郷に対する無限の思慕と郷愁(侘(わ)びしさ)が内在している。それが裏街の芥捨場や、雑草の生える埋立地(うめたてち)で、詩人の心を低徊(ていかい)させ、人間生活の廃跡に対する或る種の物侘しい、人なつかしい、晩春の日和(ひより)のような、アンニュイに似た孤独の詩情を抱かせるのである。
 因(ちな)みに、この句の「捨てる」は、文法上からは現在の動作を示す言葉であるが、ここでは過去完了として、既に前から捨ててある意味として解すべきでしょう。

『郷愁の詩人与謝蕪村』青空文庫


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