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浅草風土記 №8 [文芸美術の森]

吉原附近 1

      作家・俳人  久保田万太郎
      
            一
            
 「此年三の酉までありて中一日はつぶれしかど前後の上天気に大鳥神社の賑ひすさまじく、此処をかこつけに検査場の門より乱れ入る若人達の勢ひとては、天柱くだけ地経かくるかと思はる、笑ひ声のどよめき、仲之町の通りは俄に方角の変りしやうに思はれて、角町京町処々のはね橋より、さっさ押せ押せと猪牙(ちょき)がゝつた言葉に人波を分くる群もあり、河岸の小店の百囀(ももさへず)りより、優にうづ高き大籬(まがき)の楼上まで、絃歌の声のさまざまに沸き来るやうな面白さは大方の人おもひ出でゝ忘れぬものに思すもあるべし」とは「たけくらべ」の十四章「酉の市」の光景をうつし出した一節である。―― 何とみたらいいだろう、われわれ、この光景を?
 というのが昨夜、五六年ぶりでわたしは……いいえ、もっとである、七八年ぶりでわたしはその「酉の市」のむかし可懐(なつか)しい光景をみに行ったのである。そう思いつつ「初酉」にも行けず、「二の酉」にも行きはぐり、これはまた今年も縁がなかったかとあきらめていた矢先、昨夜「三の酉」に、たまたま通れをえて思いもよらず行くことが出来たのである。―― で、わたしと、わたしのその三人の連れとは、八時ややすぎるころ、三の輪ゆきの電車の入谷の車庫まえで円タクを下りた。 ―― 下りたのではない、下ろされた。警戒にあたった巡査と在郷軍人との勇敢にふりまわす提燈の火に、自動車という自動車(そうしてまれに俥という俥)ことごとくそこにせきとめられたのである。
 そのまま、わたしたちは、その電車の線路に沿って弓形に大きく曲った広い往来を ―― 区画整理の完了した広い往来を――広い故に暗い……ということは、両側、おなじような恰好の、きわめて栄えない、きわめて実直な、きわめて世帯じみた、たとえばおでんだの、すしだの、アイスクリームだのの屋台の既製品ばかり所狭く並べた万屋台車製造販売の、銅壷(どうこ)だの鍋だの天ぷらの揚げ台だのをうず高くつみ上げた銅器類製作の、煙草だのパンだのの飾り棚を引拡げた店飾陳列の、「時代の生んだ」鉄網万年襖商の、そうした特殊の、めずらしい、誰にでも呼びかける必要のない店々ばかりのならんでいる関係で、その店々たがいの、謙遜な、つつましい燈火の影は決してそこにまじり合ったり溶け合ったりしないからである。……往来をぞろぞろつづく人の流れのなかにまじってあるいた。自動車も俥も通らないから、あたり、そうなるとうそのようにしずかである。聞えるのは人のその流れの音だけである。――ときどきただ風のように、満員の、三の輪ゆきの電車だけがおもい出したようにうしろから抜いて行った。――その行く手の線路の、工事のために置かれたところどころのカンテラの火の瞬きが、曇った空、しぐれた月……ありようは、人形町でその円タグに乗るとき、一滴、二滴、冷い雨の粒がわたしたちの顔のうえに落ちていたのである……のほうへ心細くわたしたちの眼をさそった。
「この電車、どこを通るんた、お酉さまの?」
 わたしと同じ浅草の育ちながら、ずっと上方へ行っていたあとの山の手住居で、いつにもこっちのほうへ来たことのないわたしの連れの一人はいった。
「どこって門の前をさ」 わたしはこたえた。
「門の前7 - と、何か、電車通りになったのか、お酉さま?」
「そうさ」
「戯談(じょうだん)だろう、いつからそんな?」
「十年もまえからだ」
「十年も?」
 信じられないようにそのわたしの連れはいった。「そうかなァ……」
「そうかなァじゃないさ」
 が、そういうわたしにしても、「お酉さまへ行ってもいいけど、田圃に落ッこちないようにおしよ」といわれたのを昨日のようにしかまだ思わないのである。
 千束町の停留所のほうへ曲ると一しょに往来の幅は一層広くなった。公園のほうからのものと合してそれまでの人の流れの音は一層そこで高くなった。――が、あかあかと灯しっらねた濱店は、その暗い人の流れに背を向けて、右側の歩道のうえにだけ並んでいる。
わたしたちはそのほうへ電車の線路を越した。そうして完全に「酉の市」の群衆のなかに交った。――が、さて、それにしても吉例の、大頭、黄金餅、かんざしの店々のすくないことよ。―― まず最初にわたしのまえに展けた七八年ぶりでの「酉の市」の光景はそれだった。

『浅草風土記』中公文庫


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