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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №8111 [文芸美術の森]

        奇想と反骨の絵師・歌川国芳

        美術ジャーナリスト 斎藤陽一

                    第6回 「真に迫る役者絵」

≪クローズアップの迫力≫

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歌川国芳が入門した歌川派は、役者絵を盛んに描いた画派であり、当然ながら、国芳も生涯にわたって沢山の役者絵を残しています。国芳の役者絵の特徴は、真に迫るような表現にあります。
 たとえば、上の2点。

 左図は、坂東彦三郎演じる「神田の与吉」。
 これは、掛軸の中から現れた巨大な鯉をつかまえようとしている神田の与吉です。歌舞伎の夏興行では、本当の水を使った芝居が上演されたといいます。 

 国芳は、舞台をそのまま描くのではなく、与吉が激しい流れの中で巨大な鯉と格闘している情景を、思い切ったクローズアップでとらえ、迫力満点の役者絵にしています。

 右図は、市川團十郎が演じた「鳴神上人」(なるがみしょうにん)。
 絶世の美女・雲の絶間姫(たえまひめ)に騙されたことを知った鳴神上人は、烈火のごとく怒り、柱を両手でかき抱き、片足をからませるという「柱巻の見得」を切っている。
 この絵も、火焔模様の衣装を身に着けた団十郎の渾身の演技をクローズアップでとらえ、真に迫る役者絵となっています。

 どちらの役者絵も、色使いがとても鮮やか、特に「赤」の使い方が効果的です。 

≪怨念のこもった幽霊≫
111-2.jpg こんな「役者絵」もどうぞ・・・・

 これは市川小団次が演じた「浅倉当吾亡霊」。

 浅倉当吾は、江戸時代前期に下総国佐倉藩の村で名主をやっていた人物で、通称・佐倉宗吾(本名:木内惣五郎)のことです。

   領主・堀田氏の重税に苦しむ農民たちのために、生命を賭して将軍に直訴し、磔(はりつけ)にされたという伝説的な人物。

 のちの江戸後期に歌舞伎の演目となり、時代も室町時代に設定、名前も「浅倉当吾」に変えて上演されました。

 この絵に描かれているのは、領主の前に表われた当吾の幽霊です。 

111-3.jpg 実際の舞台では、小団次がどのような扮装で、どんな演技をしたのか、分かりませんが、国芳は、型通りの役者絵を描くことはせず、浅倉当吾のすさまじい怨念を表現しようとしています。
 その結果、ぞっとするようなリアルな表情と姿になりました。

 この絵を買った江戸っ子が、行燈のほの暗い光の中でこれを見たら、思わず背筋が寒くなるような気がしたのではないでしょうか。

 また、当吾役の市川小団次が、この絵を見たら、何と言うだろうか?
「国芳の奴め、ここまで描きおったか!」
「俺はこんなみじめなかおつきじゃぁねえ」・・・
ちょっと想像したくなりますね。

≪色目あざやか、いなせな美男画≫

 口直しに、色目も鮮やかな、いなせな美男を描いた国芳作品を紹介します。

 「武者絵の国芳」という名声をあげた「武者絵」と「役者絵」との延長線上に生れたのが、任侠道に生きる、掛け値なしの「男の中の男」を描いた「国芳もやう正札附現金男」という10枚シリーズ。
 しかも、どの男も飛びっきりの美男子として描かれた「美男画」シリーズです。

111-4.jpg 右の図は、そのうちの「野晒悟助」(のざらしのごすけ)を描いたもの。
 悟助は、少年時代に一休禅師に救われてその門に入りましたが、やがて、任侠の道に入り、月の前半は精進潔斎して過ごし、後半は「野ざらし」(野に放置されたしゃれこうべ)の模様の入った着物を身につけて盛り場を歩き、「強きをくじき、弱きを助けた」という男です。

 「国芳もやう(模様)」とは、国芳がデザインした模様という意味で、染物屋の息子だった国芳の色彩感覚が発揮されています。
 よく見ると、野晒悟助の着物のしゃれこうべは「猫たち」でデザインされている。国芳は大の猫好きで、しばしばその絵に猫を登場させています。

 このように趣向を凝らした着物を身にまとった、まことに男っぷりのいい、いなせな「美男画」ですね。

 同じシリーズから、もうひとつ、美男画をどうぞ・・・
 下図は、江戸の侠客「唐犬権兵衛」(とうけんごんべえ)を描いたもの。

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 この男は、旗本屋敷の前で飼い犬の唐犬2匹をけしかけられた時、2匹とも素手で殴り殺してしまったところから「唐犬権兵衛」と呼ばれるようになりました。


111-6.jpg 権兵衛は洒落者としても名が通っていたので、国芳は権兵衛に、閻魔大王や鬼たちが描かれた「地獄模様」の衣装をまとわせ、鏡を見ながら顔を整えている姿で描いています。

 実は、国芳自身も「地獄模様」のドテラを愛用していたと言われます。
 様々な資料によれば、歌川国芳は、まことに男気のある飾り気のない人柄だったようで、そんな人柄と絵の腕前を慕って、大勢の弟子が入門し、国芳一門の最盛期には70人を超える弟子たちがいたとか。
 弟子たちの中には、勇み肌の「きおいもの」も多く、国芳は、そんな弟子たちの面倒をよく見たと伝えられています。

 次回は、歌川国芳が描いた、ちょいとおきゃんで色っぽい「美人画」を紹介します。

(次号に続く)




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