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海の見る夢 №58 [雑木林の四季]

       海の見る夢
           ―神秘の障壁~クープランー
                     澁澤京子
       
7月14日の午前中、銀行に用事があって出かけようとちょうど玄関のドアを開けた時、中庭の工事の音に驚いたチルが私に向かって飛んできて、ちょうど開けたドアの隙間からそのまま飛び出してしまった・・共同住宅のドアは鉄製で厚くて重い。手などをはさまないように配慮してかゆっくりと閉まるようになっているが、そのゆっくりの間に外に出てしまったのだ。あわてて追いかけたがみるみるうちに空に舞い上がってゆくチル。オカメインコはそのユーモラスな顔立ちの割にすばしっこい。時速30キロで鳩と同じ速さで飛ぶ。銀行に行くのをやめて、その日は一日中チルを探したが見つからなかった。チルが飛び去ってから椋鳥の群れが大騒ぎする声が聞こえたが、椋鳥に追いはらわれて、どこか遠くまで行ってしまったのだろうか・・

私の周囲にオカメインコを飼ったことのある人が二人いる(二人とも男性)。二人とも飼っている途中で逃げられてしまったと聞いていたので注意しているつもりだったが、本当にあっという間の出来事だった。出来事というのはほんの些細な偶然に偶然が積み重なって起こる・・前の晩はジャズクラブで友人と思い切り盛り上がったというのに、なんと翌日は、思い切り落胆する出来事が起こるとは。

オカメインコはちょっとした物音に驚いてパニックを起こすことがあるが、今度は私がパニックに。頭の中は真っ白で喉はカラカラ(暑さのせいじゃなく)。こんな思いをしたのは息子たちが小さい時にデパートなどで行方不明になって以来・・まさかこの年齢になってこういう思いを再びするとは・・この辺は椋鳥をはじめ野鳥が多い。「チル~」と呼ぶたびに必ず「ピイ」と返事する鳥が多くて紛らわしい。汗だくになって家に戻ってきたら、チルのために買った夜間用の簡易クーラーが玄関に届いていた・・常に温度調節に気を配り、ビタミン剤を毎日飲ませ、おもちゃとおやつを与え、ミネラルウォーターを飲ませと大切に育てたチル・・厳しい環境の中で大丈夫だろうか?いや、過保護だから逆に家を出たくなったのかもしれない、と我が身を振り返る・・しかし、カラスに狙われたらどうしよう?いつも家でそうしているように、ボーっとして一か所に止まっているのでは?と気が気じゃない。カラスから見たら隙だらけだろう・・チルが逃げてからというもの、カラスを見かけると(別にカラスは何もしてないのに)思わず睨みつけながら歩くようになった。しかし、この辺は椋鳥やキジバトをはじめとして、野鳥のほうがカラスより多いのがせめてもの救い。

チルがいなくなり緊張しているせいか、低血圧で朝に弱い私が、なんと3時か4時にパッチリと目が覚めるようになった。うっすらと明るくなってきたころ、チルを探しにペットボトルの水と双眼鏡を持って、早朝の近所を歩き回る。時折、ウォーキングの高齢者とすれ違う。白々と空が明けたころの仙川には、シラサギ、椋鳥、ヒヨドリ、キジバトなどの野鳥がたくさん集まってくる。カワセミも昨日の朝、川で見た。羽を広げた時のブルーの美しさに思わず見とれる・・日本的なシックな色合いの野鳥の多い中、黄色、オレンジという派手な色のチルは思い切り浮いてしまうだろう。あたかもグレーやブルーのスーツで決めている真面目な集団の中に、一人だけ派手なドレスを着て浮いている人のように。他の鳥からいじめられてやしないか、とかいろいろ心配する。もしチルに出会ったら仲良くしてあげて頂戴ね、と公園の芝で餌を探している椋鳥に心の中で話しかける。

絶望的な気持ちでシスター・キャサリンにメールで報告すると「Dont Give Up!」と力強く励まされた・・シスター(79歳)は今、山形で山伏の修行中。そうだ、やれることはすべてやろう、とポスターを方々に貼り、ネットの鳥迷子掲示板にいくつか載せ、警察に届け・・日中のフライパンを熱したような焼け付く陽射しを避け、明け方と夕方は近所を探して歩く。どんなに疲れても、山伏の修行をしているシスター・キャサリンのことを考え、めげそうな己に鞭打つ。

人間、藁をもつかみたい状態になると何をするかわからない・・なんと、ネットの占いにも頼るようになった私。「チルは帰ってきますか?」と占うと、ネットのタロット占いでは「恋人」というカードが出た。「・・彼はあなたにとても好意を持っています、結婚も考えているかもしれません・・」というまったく的はずれな解説を読み、(結婚ということは、チルが家に戻ってくるという暗示か?)と無理やり曲解して自分を安心させる。焦ると人って何をはじめるかわからない・・

SNSの迷いインコの掲示板では、インコが逃げて悲嘆にくれている人が多く、こういう場合にはしみじみとSNSはありがたいと思う。私の友人たちのたくさんの励ましもうれしいけど、何よりSNSで、同じ辛さを経験した人の言葉は心にしみる・・つらいのは自分だけじゃない・・オカメインコを粘り強く探し続け、一年後にようやく見つけたというフランスの青年の話にはずいぶん勇気づけられた。近所に住む友人が協力してくれているのも実に有難
い・・

たいていの飼育の手引きには「放鳥は一日、一~二時間」と書いてあるが、我が家では朝から晩までずっと放鳥していた。甘えんぼうのチルは一日のほとんどの時間を肩に乗って過ごす。私が坐禅している時は肩に止まってじっとし、頭や首を撫でると目をつむってうっとりしていた・・同居している下の息子の体格がいいせいか、来客の中でも体格のいい人物によくなついていた。慎重な性格なので、肩に乗せたまま宅配便や生協の配達を取りにいっても逃げることはなかった・・日光浴の時だけ、ケージに入れてベランダに出した。ベランダの外の木の椋鳥の群れる様子を(自分も鳥なのに)バードウォッチングしていた・・鏡を見せると驚いてじっと自分の顔をみつめ、それから急に怒って鏡をつついたりした・・オカメインコは音に弱い。掃除機をかける時は驚かせないように、いつも別の部屋にわざわざ移すほど気を使っていたのに・・外の工事のはじまったちょうどあの時、私が玄関を開けさえしなければ…と、いくら悔やんでも悔やみきれない。

ペットを飼ったことのある人だったらわかると思うが、犬や猫、鳥はそれぞれ個体によって性格が違って個性がある。子供の時からいつも犬がいた。すごく聞き分けの良い賢い犬も、マヌケでお人よし?の犬も、人見知りで家族にしかなつかない犬も、みんな個性があってそれぞれが愛すべき存在。鳥好きは同時に何羽も飼っている方が多いが、それでも一羽いなくなれば半狂乱になって探す・・鳥の個性もこの世に唯一の存在であり、「唯一性」というのは、たまごっちやロボット犬と、本物の生物との違いかもしれない。

植物学者の稲垣栄洋さんによると、生物は常に単純から複雑・多様性を目指して進化し、その境界線は連続的であいまいなものであるのに対し(死は生物多様性のために、進化の途中で発明されたものらしい)、人間はバラバラであることを嫌い(みな同じ)の画一性を好むか、反対にカテゴリー分けするのが好きなのだそうだ。つまり、わかりやすくするためにだ。たとえば、均一化では、為政者にとって好ましい全体主義というものがある。(例・ビッグモーターなどブラック企業はまさに全体主義そのものだろう)。脳は単純化を目指すので、脳に依存する人ほど、物事や人の単純化、つまり、同一化かカテゴリー化を好む。・・一般的に、他人をカテゴリー化してわかったつもりになる人間は、自分自身にも率先してレッテル貼りする人が多い(例・私ってA型牡羊座だから~など)・・

つまり、「わかりやすさ」はある意味、偏った頭脳化社会の産物ともいえるだろう、要するに、人の脳は言葉に落とし込み何でも「わかったつもり」で安心したがる傾向がある。植物学者の稲垣さんの『はずれ者が進化を作る』は実に面白くてお薦めの本。勝ち組負け組だの、敵や味方など、常に単純化の方向を目指す人の頭脳の働きと、実際の生物の多様性がいかにかけ離れているものかがよくわかる・・特に脳の情報量が少なければ少ないほど、誤った偏見や決めつけが一層強くなりがちになるのかもしれないが・・

迷い鳥の掲示板を見ると、いろんなオカメインコやセキセイインコの写真がある。(〇〇ちゃん1歳・オス・頭のてっぺんが丸く禿げてます)というコメントと共にある写真のオカメインコ。冠羽がなく、頭のてっぺんがなぜか禿げているが、飼い主さんはおそらくその丸い禿げのためにいっそうそのインコが不憫でいじらしくて仕方ないだろう、(片足の悪いインコです・〇月〇日ベランダから逃げました)を読めば、片足が悪いセキセイインコのことを、飼い主さんはどんなにハラハラと心配しているだろう、と切ない。鳥や動物には自意識がなく自己憐憫という余計なものがないので、頭のてっぺんの禿げなど少しも気にせず機嫌よく飼い主の肩に止まったりするだろう・・だからこそ余計に不憫だし愛らしいのである。

AIはいくらでも「愛するふり」はできるが、本当に人を愛することはない。人がAIより優れているとしたら、「愛」という、まったくコスパの悪い、非合理的で計算不可能な感受性を持つところかもしれない。AIの脅威が言われているが、私は人間のAI化による感受性の鈍麻のほうがよほど脅威じゃないかと思っている。

鳥を探しているといろんな人に出会う。インコの群れが時々来ると言って、暑い中、親切にその場所まで案内してくれたお婆さんもいたし(このお婆さんとは早朝、顔を合わせているうちに、すっかりおなじみになった)、とても親切な対応をしてくれた近所のお巡りさん、ポスターを配りに行くと同情してくれるコンビニの若い店員さんも何人かいて、世の中、優しい人のほうが圧倒的に多い。

明け方の近所の探索から戻って、ベッドで横になってうとうとしていたら、チルの顔が鮮やかにパッと目前に浮かんでそれで驚いて目が覚めた。オカメインコを飼ったことのある方だったらおわかりになると思うが、オカメインコ独特の機嫌のいい時の微笑んでいるような顔。肩に乗せて顔を近づけると、よくチルは微笑んでいた。チルはどこかで生きているということ?それとも・・とネガティブに考えると絶望のどん底に。希望と絶望の交互に訪れる、気分はジェットコースターの毎日。

小鳥にも犬にも猫にも、動物には自意識というものがなくて、無意識の深い部分でダイレクトにつながるので、チルが私を呼ぶ前に、チルが私を呼ぶのがわかることが時々あった。「愛」に関しては、動物は純粋で、人よりずっとレベルが高いんじゃないだろうか。だからインコが逃げてもいつまでもあきらめきれない人が多いのだろう・・鳥や動物と人との透明な関係と比べると、人間関係がいかに不透明であるのか、逆にわかる。

チルがいなくなってから日にちの感覚がなくなり、今日が何曜日なのかはメールやラインで初めてわかるという状態、いてもたってもいられないのでとにかく外を歩く(暑いので一日に何度もシャワーを浴びるはめに)もちろん、落ち着いて本を読むことなどとてもできない、かといって、長時間、家を空けられない(いつ帰ってくるかもしれないので)うとうとするとチルの鳴き声が聴こえたような気がしてガバッと起き上がる(まずい・・幻聴か?)

迷い鳥サイトで知り合った方から教えてもらった警視庁の落とし物サイトを一日に何回も見る(逃げた鳥や動物は落とし物扱い。)急に思い立ち、ポスターをさらに増刷しにコンビニに行く、ついでに新たな場所に貼りに行く・・迷い鳥サイトを見ると、何年もこうして根気強く探している人は決して少なくない。犬と人間の関係は、友人同士という感じだが、鳥と人の関係は、恋に近いかもしれない。

シスター・キャサリンをはじめ、大勢のシスターたちがチルのために祈ってくださったが、なんて幸せな鳥なんだろう!そして、「幸せ」は決して閉じ込めたり独占したりできないように、チルは自由を求めて飛翔したのかもしれない。本当に幸福なとき、人は自分の幸福にはまるで気が付かないものだ・・幸福が逃げたとき、初めて人はそれが幸福だったことに気が付くのである。

チルはケージにこそ閉じ込めていなかったが、部屋全体が檻のようなもの。ベランダで日光浴するたびに入れられた狭いケージの中から、自由に飛び回るキジバトや椋鳥たちを羨ましく眺めていたのかもしれない。じっと庭を見ていたチルの小さな黄色い後ろ姿が今でも目に浮かぶ。カラスに襲われたり厳しい自然や環境に生きるリスクを冒してでも、大空を自由に飛びまわりたいか、安全、快適な狭い室内で退屈な日常の繰り返しを送るか・・鳥は安全や快適な環境で長生きするよりも、ずっと自由に飛翔するほうが好きだろう。

おとといの夕方、うちの近所で、チルによく似た鳴き声がやたらと聴こえてくる欅の大木があった。樹上を見上げて「チル~」と呼ぶと、生い茂る葉の間からバサバサっと緑色のインコが飛び出してきてすぐ真上の電線に止まった。頭の丸い緑のウロコインコ。さらに呼んでいるとオカメインコが出てきて遠く離れた電線に止まった。夕暮れ時、しかも遠いのでチルかどうかはわからないけど、冠羽のあるほっそりしたシルエットはまさにオカメインコだった。オカメインコは高い電線の上からしばらくの間「チル~」と叫んでいる私のほうを見下ろしていたが、やがてウロコインコとともに、夕暮れの空の向こうに飛び去って消えた。チルはまだ未成年だが、もうウロコインコのボーイフレンドができたのか?・・その様子を見ていた通りがかりの中年女性が、その欅の大木にはインコの群れがよく来るということを教えてくれたので、毎日見に行くが、あれからインコの姿は見えない。ウロコインコは抜群に頭がいいらしい(三歳児の頭脳を持つといわれている)が、もし、連れのオカメインコがチルであるのなら、どうぞカラスなどの外敵からチルを守ってください、二人で仲良く助け合ってね・・と祈るような気持ちに。チルは一人ぼっちじゃないと、と少しホッとしたのである。

それでも、相変わらずチルを探して電線や木の上を見上げながら歩き、色や形が少しでも似ていると何でもチルに見えてしまう未練たっぷりの私。玄関のドアの隙間からするりと抜け出したチルが、夏の青空に舞い上がってゆく姿は本当に堂々として美しかったのである。

 ※最近、よくチルと一緒に聴いていたのが、クープランの「神秘の障壁」。愛らしく軽やかな、ロココ調エレガンスのこの曲は、薔薇の花が大好きだったチルにふさわしい。


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