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住宅団地 記憶と再生 №13 [雑木林の四季]

Ⅲ ベルリン
 -ブルーノ・タウトと6つの世界遺産団地

       国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

 歴史上の遺跡ではなく、いまも大勢の人たちが暮らしている住宅団地か「世界遺産」になったというニュースには驚いた。日本なら老朽化したと当たりまえに取り壊すにちがいない団地が、ベルリンでは「モダニズム住宅団地」として6つの団地を世界遺産に申請し登録され、これからも誇りたかく輝きつづけることになる。世界遺産にまでしたベルリン当局者の真意も知りたいし、そこにすむ住民の思いはいかばかりか興味がある。
 2010年1月にベルリンにいく機会があって、このさいぜひ訪ねよう、ちょうどインゼルの新美術館が修復をおえ再開されたばかりで、エジプトの王妃ネフェルティティにも会えると、心はずませて出かけた。その冬は4団地しか回れなかったが、同年10月のフランクフルト国際書籍市のついでに、ルール地方、フランクフルト近郊の団地をめぐったあと、ベルリンにも寄って、あとの2団地も訪ねることができた。
 じつはそれ以前にも、世界遺産になるまえに見ている。わたしの関心の原点は、建築家ブルーノ・タウトBruno Tautt 1880~1938にあった。わたしが知っているのは、『ニッポン』(1934年)や『日本美の再発見』(1939年)の著者、石川淳の『白描』(1939年)のモデルとしてのタウトでしかない。かれが建築家であるからには、桂離宮や伊勢の外宮、飛騨の白川郷をたたえ、日光東照宮をくさしたタウトの、かれが建てた建物を実地に見たかった。その望みは一部すぐにかなったが、世界遺産登録まえであり、のちに世界遺産になった6団地のうち4団地がタウトの作品とあっては、なんとしても改めてすべてを見なければと急き立てられた。
 わたしが初めに見たのは、30年前の1990年10月である。この年はフランクフルト書籍市の日本テーマ年で、そのあとベルリンの古書店めぐりをしていたとき、旧知の写真家マリオ・アンプロスイウスがちょうどベルリンに滞在していて、マイカーで連れて行ってくれるという。もう日は傾きかけていたが、タウトの代表作といわれるツェーレンドルフの、アカマツと白樺の並木のなかの「アンクル・トムの小屋」団地の家並みを眺め、ノイケルンの馬蹄形団地にむかった。団地に着いたときは夕闇がせまり、広い窪地の真ん中にある池の水面だけが明るく、白樺の木々はもう陰っていた。まわりに大きく円弧をえがいて建ち並ぶ建物は、点々とつながる窓の灯りをみせるだけで、黒く寝静まっていた。当時すでに築60年をこえる建物は、近づくと古びて、傷みもあちこちにあったのを思い出す。
 つぎは2010年1月6日、いちめんの雪景色のなかに色鮮やかに立ち現われた馬蹄形の連続住棟は、20年前のくすんだ団地ではなかった。くすんで見えたのは、夕闇のせいだけではなかった。この間の20年は、建物を補修し、外壁、建具、窓枠の色も塗り替えて原型に復し、まわりの環境も再整備し、世界遺産登録にこぎっけるのに必要な歳月だった。馬蹄形団地には、その後も2019年9月4日にたずね、住人にインタビューすることができた。
 世界遺産になった他の団地も、1997年にユネスコに名乗りをあげるかなり前から、2008年に登録が決定されるまでの間、おなじ経過をたどってきたのであろう。わたしはこれら6団地すべてを歩くことができた。ベルリン記念建造物保護局が編集した『ベルリンのモダニズム住宅団地-ユネスコ世界遺産に登録』Siedlungen der berliner Moderne/Berlin Modemism Housing Estates 2.Aufl. 2009を参照し確認しながら、建設年代の古い順につぎの6団地と、世界遺産には登録されなかったが、わたしの好きな、またタウトの代表作ともいわれる「森の団地オンケルトムス・ヒュッテ」についてその見聞を書きとめることにする。

 1.田園都市フアルケンベルク      1913~1916年
 2.シラーバルク団地              1924~1930年
 3.ブリッツの大団地(馬蹄形団地)   1925~1930年
 4.住宅都市カール・レギーン団地    1928~1930年
 5.ヴァイセ・シュタット団地         1929~1931年
 6.大団地ジーメンスシュタット        1929~1931年
 7.森の団地オンケルトムス・ヒュッテ   1926~1931年

 ベルリンの団地はたんに「ジードルング」とよばれ、はじめに書いたルール地方の団地の「アルバイタージードルング」(労働者住宅団地)とは異なる。ルール地方でみたのは、クルップとかティツセンなど企業主が自社の炭鉱、=湯で働く労働者のために建てた団地である。これにたいしベルリンの団地は、労働者階層を主な入居対象にした集合住宅群にはちがいないが、行政がi二噂し、建設・管理は協同組合など非営利組織にゆだねられた社会的・公益的な団地である。この供給主体のちがいのはかに、労働者住宅団地は1850年代から1920年以前に建てられた団地をさし、建設年代のはか建築様式等にも関係があるのだろう。
 かつて企業家たちは、都市から離れた地に工場を建設するさい、そこで働く労働者家族に生活の喜び、文化として住居を与えようと意図した。それなしには労働力を損なうことを知っていた。イギリスにはじまる「田園都市」のイデー実現の試行の跡も労働者住宅団地にはみられる。しかし20世紀にはいると企業家の、いわば「篤志」は消えうせ、都市の拡大とともに労働者の住宅難は深刻さをまし、居住は悲惨をきわめていた。
 ドイツは第1次大戦に敗れ、財政は危機、経済は最悪の状態のなかで、政治的には革命をへて1919年にヴァイマル共和国が誕生した。住宅政策・都市計画のうえでは改革の機運が急速に高まっていた。ベルリンに「大ジードルング」建設が本格化したのは1918年以降、主導したのは建築家マルテイン・ヴァグナーMartin Wagner1885~1957である。社会民主党員のかれは1918年、33歳にしてシェーネベルク市(1920年にベルリン市に合併)の建設参事官に就くとともに、19年に労働者のための住宅建設会社ドイチェ・バウヒュッテDeutsche Bauhiitte mbHを創立し、気鋭の建築家たちをあつめて革新的な建築行政を推進し、労働者住宅運動をはじめた。24年には労働者、サラリーマン、官吏のための全国的な住宅供給のネットワーク、ドイツ住宅福祉協会Deutsche Wohnungsfursorge AG=DEWOGを組織し、ベルリンにおいては非営利の協同組合、公益住宅貯蓄建築会社ゲハーグ社Gemeinndtzige Heimstatten-,Spar- und Bau-Aktlengesel1schaft=GEHAGを設立して団地建設の実績をあげ手腕を発揮した。26年にはルートヴィヒ・ホフマンの後任として大ベルリン市の都市建設参事官(都市建設局長に相当)に抜擢された。
 ベルリンで「ジードルング」と名づけた最初の集合住宅は、ヴァグナーがシェーネベルクに建設したリンデンホーフ団地(1918~19年)であり、その設計にはブルーノ・タウトも加わっている。しかしそれ以前に、企業家たちの「篤志」は消失し、ヴァイマル期にはいってヴァグナー指導の「社会主義的」計画が出現するまでの間も、それをつなぐ先駆的な集合住宅建設の努力はおこなわれていた。ブルーノ・タウトが設計した田園都市フアルケンベルクをその代表作として位置づけることができる。
 タウトの作品歴をみると、1913年までは主に3~5階建て貸賃アパート、事務所ビル等を建ててきたが、13年に当時ドイツ田園都市協会Deutsche Gartenstadtgesellschaftの建築顧問であったかれが「田園都市」を冠してフアルケンベルク団地を設計、建設に着手し16年に完成させた。このことからも、20世紀初頭までの労働者住宅団地と20年代以降のモダニズム住宅団地とのあいだに通底したのは田園都市構想であったことは明らかだし、この運動を支えた人脈が、理念を発展させ大きく花開かせた。この評価とともに、ベルリンのモダニズム団地が、現代の都市住宅建設に記念碑的影響をもたらすことへの期待が世界遺産登録の理由なのであろう。

『住宅団地 記憶と再生』 東信堂



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