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雑記帳2023-2-15 [代表・玲子の雑記帳]

2023-2-15
◆東京に大雪警報が出された日、念願だった雪の大内宿を訪ねました。

Wikipedeiaでは、大内宿は、福島県南会津郡下郷町大字大内にある、江戸時代における会津西街道(別称:下野街道)の「半農半宿」の宿場の呼称、とあります。
「半農半宿」については、最初は本陣と脇本陣を備えた参勤交代の宿場町でしたが、後に参勤交代の主要な道筋から外れたために、宿場だけでは立ち行かなくなったためでした。
明治期の鉄道開通に伴って宿場としての地位を失いましたが、茅葺屋根の民家が街道沿いに建ち並ぶ景観は引き継がれ、人々は店舗兼住宅として生活しています。

1981年(昭和56年)に重要伝統的建造物群保存地区として選定され、福島県を代表する観光地の1つになりました。旧宿場としては長野県妻籠や奈良井宿に次ぐ3番目の指定でした。
町では、この大切な村・宿場の景観を未来の子供たちに引き継いで行くために、住民憲章を作って「売らない・貸さない・壊さない」の3原則を守り、景観保存と伝統的な屋根葺きの技術習得、継承に全員で取り組んでいます。
訪れた日も、観光客のために見晴台までの雪かきが町の人の手で行われていました。

こうして、観光地としての人気もたかまりましたが、順風満帆だったわけではなく、高度成長期には、古い町並みとそこでの暮らしぶりがいかにも時代遅れ、誰がこんなところに行くだろうかと言われた時代もあったということです。その後も東日本大震災やコロナ下では観光客が激減するなど、何度か危機を乗り越えてきたのでした。
訪れる観光客は若い人が圧倒的。リピーターもいるようで、同乗のツアー仲間には、夏に一度来たけど冬の大内宿が見たくてまた来たという人もいました。コロナが解禁になって海外からの客も戻ってきた様子です。店番をするおばあさんとの会話を楽しむ風景も見られました。

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見晴台から見下ろした大内宿
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本陣が雪祭りの案内所に
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本陣前にあった雪像

雪の見晴台から落りてきて最初に入った店で蕎麦煎餅を買いました。ふと目をやると、マネ猫ならぬ小さな蛙の置物が2匹、しきりに手をふっている。
「あら、おいでおいでしているのね。」と言うと、
「この子はソーラーで動いているんだよ。夜になったらこの子もお休み。」とおばあさん。
昔の暮らしを守りながらさりげなく近代化もとりいれていたなんて、おばあちゃん、かっこいい! ついでに写真をとらせてもらいました。

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かえると一緒に店番のおばあさん
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土産物屋の店先にあった布の野菜の吊るしもの 厄除けや健康祈願に。
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自由にお茶飲んでと勧められた試食の漬物 中でもおすすめは高菜ときくらげのしぐれ煮

会津といえば蕎麦です。宿場を歩けば何軒もの蕎麦屋さん。みな「ネギそば」と書いてある。東京で見る、千切りの葱が山ほどのったネギラーメンの蕎麦版だと思いきや、さにあらず、丸々1本の葱が丼にのっている。ネギを箸替わりにして食べるのだそうです。
これが意外に難しいらしい。上手だねと言われていい気になり、一緒に葱も食べすすんだものの、1/3を残して辛さにgive up。でも葱蕎麦は十分堪能しました。座敷の別の席にタイからの団体がいたのだけれど、ネギ、うまく食べられたたかなあ。

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お昼を食べた叶屋本家
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ネギそば

蕎麦についてきたのは「しんごろう」。半つきにしたご飯にじゅうねん味噌をぬって焼いた会津自慢の郷土料理です。会津出身の友人がしきりに口にしていたじゅうねん味噌とはこれかと思いながら、五平餅に似たしんごろうを楽しみました。食べ応え満点です。

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囲炉裏いっぱいに並べられたしんごろうは壮観でした。

会津は豪雪地帯です。石高は低く、生まれた子供も十分に育てられないくらいに農村は貧しかった。幕末に諸国を歩いて会津にやってきた吉田松陰がこの話を詳しく聞こうとすると、古老は言葉を発することなく涙したという言い伝えがのこっています。松陰が世を変えたいと思った動機のひとつだと言われています。(世襲の多い今の政治家にその気概有や?) 今なら蕎麦は健康食ですが、米の食べられない庶民が常食としていたのを思えば、しんごろうは大したご馳走だったに違いありません。
残念なことに、しんごろうの意味をききそびれましたが、友人によると、どうやらこの食べ方を発見した人の名前らしい。

大内宿の雪まつりを見るために前日の夜、七日町駅に近い「渋川問屋」で会津の郷土料理をいただきました。

江戸時代から明治にかけて、北海道と大阪を結ぶ北前船が日本海を往来していました。
寄港地の新潟から阿賀野川を上り、北海道の身欠きニシンや棒タラなどの干物が会津にも運ばれていたのです。渋川問屋は明治15年(1882)初代・渋川善太郎が海産物問屋として創業したのが始まりです。

渋川問屋は会津一の海産物問屋として隆盛を極めましたが、現在ではその役割を終え、料理と宿泊のできる宿になっています。大正期に建てられた建物は隆盛期の姿をとどめ、美しい格子の風格ある佇まいは通りを行く人々の目を奪うほどです。ステンドグラスの施された内部など、随所に大正ロマンの香が漂います。

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渋川都問屋前景
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ステンドグラスは女子用トイレにも

ここはまた、昭和初期2.26事件のおり、唯一民間人として処刑された渋川善助の生家でもあります。善助ゆかりの部屋が今も「憂国の間」として店内に保存されています。

いただいた「祭り御膳」は身欠きにしんや棒たらをメインにした会津強度料理のフルコースです。海に面していない山国の会津は京都に似て、干物料理を工夫したのです。北海道のニシンやタラが内陸の会津まで運ばれた経緯を想像しながら、料理にかかる手間や時間も思い合わせて頂く味は、瀬戸内海で簡単に新鮮な魚が食べられる場所とは違った、格別なものでした。最後に出た会津牛もおいしかったです。会津塩川町で飼育される幻の会津牛は、極上の献上牛として評価も高く、コース料理で十分おなかがふくれているはずなのに、わずか40gが惜しかった・・・。

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棒たらやニシンののった祭り御膳
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にしんの昆布巻き
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会津塩川牛のステーキ

なかで、珍しかったのは「こづゆ」と呼ばれるお吸い物でした。会津では冠婚葬祭やお正月に振舞われる郷土料理だそうです。
貝柱でだしを取り、里芋やきくらげ、豆麩などを入れた具だくさんのお吸い物は、手塩皿と呼ばれる、こづゆ用の会津塗の浅い椀で出されました。

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こづゆ

この時期、北国ではいろいろな所で雪まつりが開かれます。
大内宿の雪まつりついでに、県を超えた栃木県、日光は湯西川温泉の平家の里の雪まつりを覗きました。

湯西川は、その昔、平家の落人が湧き出る湯で傷を癒したことから平家の里としてしられています。
温泉郷のバス停の前に平家の里はあります。地名もそのまま平家集落。
住民には「伴」姓が多く、「平」の文字を隠した「半」の字の中に、子孫が平家の出であることを忘れないようにとの思いを込めて、「伴」を名乗ったのだと言われています。
雪のかまくらを見に大勢の家族連れでにぎわっていました。
かまくら祭りの期間は長く、1月末から一か月も続きます。それだけ雪が深いのですね。

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前日降った雪がまぶしい会場
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一番人気はやっぱり「かまくら」
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里のくらしを支えたのは狩猟。展示館の中には熊や鹿のはく製、民具の展示も。


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