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山猫軒ものがたり №12 [雑木林の四季]

暮らしを耕す 3

            南 千代

  知らないことは、まだまだあった。味噌や豆腐も、自分で育てた大豆から作ってみようと、種屋に行った。野菜の種は、ちょっとしたスーパーや雑貨屋の店先にも置かれているが、百姓は、やはり専門の種屋で買う。私たちも気持ちだけは、すでにしっかり百姓してたので、種は種屋で買うことにしていた。
 店の棚に、大豆の絵が描いてある種袋がない。思いきって、種屋のおじさんに聞いた。どことなく恥ずかしい。
「あのう、大豆の種はありますかTL
 おずおずと開き、黙って手渡されたのは、目の前にあった枝豆の絵の袋だった。何と、枝豆の青い実が完熟して乾燥すると、あの大豆になるのだった。いやあ、知らなかったなあ。
 種は、ほとんど袋の絵を頼りに買う。サマーライダー、雪化粧、カクテル、雷電、桃子ちゃん……。種の名前だけで野菜がわかる人は、百姓のプロだけだろう。
 袋に、ホウレンソウ、カボチャ、トウモロコシ、キャベツ、トマトの絵があって初めて、雪化粧がカボチャの種であると、わかる。中には、(成金総太り)という、なってみたいような、なりたくないような名前の種もあり、これは大根である。
 野菜には、たとえばホウレンソウひとつとってみても、作る季節や葉の色、耐病性ごとに品種が異なり、商品名も各メーカーごとにつけられている。種専門にネイミングをしているコピーライターもいるのだろうな。種屋で種袋を見るのは、とてもおもしろい。

 ばあさんの教えを守り、まじめに百姓一年生をやったおかげで、やがて夏野菜が続々と採れ始めた。イポイポが痛くて、とても素手では握れないキウリ、ずっしりと真っ赤に熟したトマト、ピリリと辛い夏大根などなど。
 掘りたてのジャガイモは、皮をむかなくても、洗うと薄皮がツルツルと取れ、ピンポン玉ぐらいの小さなものは、そのまま丸ごと揚げて、熱いうちにパルメザンと塩をたっぷりまぶして食べる。
 タマネギはスライスすると、うっすらと白い汁を出す。水にさらしてカップシと醤油をかけると、最高のオードブルになった。トマトも、切ってワインビネガーをかけるだけ。すばらしくうまい。
 野菜というと、肉や魚の付け合わせぐらいにしか思っていなかった私は、あらためて野菜を見直した。
 それにしても、このおいしさは何だろう。今まで食べていた野菜は、一体何だったのだろう。自分で作ったという思い入れの強さを差し引いたとしても、あまりある格段の味だ。畑で収穫して一時間後には食卓に上るのだから新鮮さは当然にしても、昧自体が違う。
 肥料は、枯れ葉の堆肥小屋から運んできて使った。農薬を使うことは知らなかった。ばあさんは、こう教えた。
 「金肥(かなごえ)を使えばもっと大きくなるし、薬を使えば虫はつかね、え。立派な野菜ができるんだけんどな。でも、自分ちで食うんだから、金かけなくつたって充分だろ」
 金肥とは、金をだして買う、化学肥料のことである。

 畑がやりたくて始めた山猫軒での暮らしではなかったが、野菜を作ったことによって、私の中には、たくさんの「なぜ」の種がまかれてしまった。
 トマトは夏にしかできない野菜なのに、店先に一年中あるのはなぜ? なぜ、私の作ったキウリは、まっすぐではなく全部曲がってしまうんだろう? 売られているジャガイモのように芽を出さずに保存するには、どうするんだろう?
 生まれてから今日まで、毎日食べ続けたものに関して、私はほんとに何も知らなかった。どこそこの店の何とかがうまい、というようなことはよく知っていたが、冷蔵庫に年中キウリやレタスが入っているのはあたりまえすぎて、あたりまえと意識することすらなかった。犬を飼って始めて、そこらの犬を興味のまなざしで見始めたように、私は食物を見始めた。
 なぜ?の種は、芽を出し葉を茂らせて、今の日本の農業や食糧事情、食を取り巻く流通機構までおおっていき、その根はやがて、毎日美食のもとに過食を続ける自分の暮らしにまで触手を伸ばしてきた。私たちが行った野菜の作り方を無農薬有機栽培と呼ぶことも知った。
 わずかではあるが、自分の手で作物を作ってみると、食卓の上が変わってきた。一個のトマトですら、話のつきないごちそうになり、ピーマンの献立が何食続いてもガマンできるようになり、第一、外食することが極端に少なくなり始めた。家に野菜がたくさん待っていると思うと、外で食べるのが何だか後ろめたい。
 野菜を大切に思う気持ちが強くなった。買った野菜の使い残しは、冷蔵庫に入れたまま、つい忘れてしまうのに、自分で作ったものだと、干大根にしたり、ピクルスにして保存してまで食べようとする。
 労働の報酬を以て食物を得る、という点では、働いて得た金で食物を得ることと、自ら土地を耕して食物を得ることの間に、何の差もないと思えるのだけれど。金という介在物をおかないぶんだけ、私と食べ物の間の距離が近くなるのだろうか。
 次第に食巾の士は野薬づくしとなり、食事前の大へのかけ声は、「お魚だよ、さあ、ウサちゃんしようね」となった。

 夫は、畑にがんばる一方で、太陽熱温水器を作ろうとしていた。ビールの三リットル入りアルミ缶が三十四本、必要だった。
 それを二列に口合わせに並べ、ジョイント部品で接続して水道につなぎ、缶の中を水が循環する仕組みにする。並んだ缶を納める木箱を作り、集熱効果を上げるために黒ペンキを塗って、ビニールシートをかぶせて庭におけば、完成するという。作り方は、隣の稲城市でこの方法を実践していた市職員の高野さんに習った。
 私たちはまず、空缶集めから始めた。酒屋の横に空缶があるのを見つけるとすぐにかけ込み、店主に断って缶を捜し、もらってきた。
 夫の太陽熱温水器は、夏に完成した。井戸水は、太陽が輝くと約七十度にもなり、バスタイムは、最高にぜいたくな気分である。
 太陽のエネルギーはすごい。約一億五千万キロも離れた宇宙での、原子核融合反応の熱のおかげで、今、私はこうして温かなお風呂に入っているのだと思うと、狭いバスタブの中で、宇宙遊泳でもしているような気分になる。
 私たちは、暮らしを自分たちの手で作ることに熱中した。畑だけではなく、私は梅干しや果実酒、ジャムや天然酵母のパン、豆腐、漬物など、もっぱら食品を。夫は、テーブルや椅子、太陽熱温水器など、生活具を造った。
 気がついたら、私たちは、何か大きな力に導かれるように、周りの自然のリズムや摂理に治って暮らすようになっていた。夫の 「水と空気のよい所で暮らしたい」というとてもシンプルな希望が、私たちにもたらした変化は大きかった。
 自給自足という暮らし方に目覚め始めた頃、山猫軒での生活は二年目を迎えていた。夫は鶉を飼ったことで、中島正氏の「自然卯養鶏法」という本にめぐり会い、気持ちは急速に養鶏へと傾いていた。おまけに、野菜だけでなく食の基本である米も作りたいと言い出した。
 現金収入の必要性と、それに伴う都心での仕事の頻度を下げるために。米を作り、養鶏も行い、食と暮らしの自給率を高めたい、というのが夫の新たな願いとなった。
 しかし、一歩この谷から出れば、周囲には開発の波が渦巻いており、夫が希望する田舎暮らしの明るい未来は、描けそうにもなかった。

『山猫軒ものがたり』 春秋社



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