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住宅団地 記憶と再生 №6 [雑木林の四季]

デュースプルク 1

        国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

  10月11日、風やや強いが快晴、好天にめぐまれ体調もよい。宿泊を3泊にのばした。労働者住宅団地めぐりは容易ではない。市の中心街から離れていても、公共のバスや電車で行けるが、目的地にいく路線とその乗り場を探すこと、下車する駅の確認に一苦労する。観光名所ではないし、駅員や運転手に聞いても知らないことが多い。下車しても、バスや電車の通りに面しているわけではなく、集合住宅ではあるが低層だし、奥まっていて見つけにくい。地図とにらめっこの旅である。こんなことをここに書くのも、ルール地方最終日の3日目は、団地さがLに手間どったからである。
 シュテマースベルク団地をたずねたあと、オーバハウゼン駅からデュースブルクには10分あまりで着く。そっけない中央駅とむやみに広い駅前、案内所は歩いて3、4分先の繁華街ケーニヒ通りにあった。目的の団地の所在と行き方を確認し、この市の観光スポットを1か所選ぶとすればどこかを聞いた。行き先は同じ路線の路面電車で、中央駅をはさんで逆方向の2団地と、観光は夕方遅くになるだろうからライン川の河川港にきめた。

5.ヒュッテンハイム団地 Siedlung Httenheim(An der Steinkaul,47259 Duisburg-Huttenheim)

 トラム903で25分、終点のこの辺りは見わたすかぎりの工場地帯である。建ち並ぶ工場、貨車の引込み線、資材置き場、ガスタンク、いまも煙をはきだす何本もの煙突。それを見下ろす高台に城壁のようなヒュッテンハイム(冶金のわが家)団地がある。西方にライン川が流れる。
 エッセンに本社のあるシュルツ・クナオト社Schulz-Knaudtがここパッキンゲンに新設した板金圧延工場の熟練労働者のための住宅として1911~13年に建設し、14年にはマンネスマン製鉄会社Mannesmann-Werkeに買収された。
 デュースブルクのこの団地は、これまで見てきた団地とくらべ、いくつかの点で様式がちがっていた。平屋または2階建て、ときには2階に屋根裏部屋つきの、2戸とか4戸つづきの庭つき建物が、通りにそって平行に並んでいるのにたいし、ここではすべて3階建て、各数十戸もの集合住宅棟が5つかGつ連続して長方形の中庭をかこみ、中庭は木立ちと植え込み、通路があん。だから洗濯物を外庭には干せず、各戸のベランダに干している。
 用地正面なのだろうか、中央部が突出していて、時計台のある住棟が玄関然とかまえ、その下は外部と中庭、住棟をむすぶ通路、団地の出入り口となっている。社宅であったこの団地の設計を、工場から帰っても従業員は管理・監視される仕掛けだという記述があった。
 この団地も、第2次大戦後マンネスマン社は管理を投げだし、50~60年代にはトルコ人従業員を住まわせ、1980年代は移民労働者が90%を占めた。住宅の保守は停止し、従業員解雇もつづいて半分以上が空き家になったという。そして1984年、同社は団地の取り壊しを決めた。ただちに市民たちは新たに団体を立ち上げて計画に反対、保護と修復をもとめる運動に立ち上がった。2年後の86年には記念建造物に指定され、シュヴァーベンバウ社Schwabenbauが団地の修復にとりかかった。
 わたしがルール地方の団地を訪れたのは2010年、いずれも記念建造物に指定され修復された形姿からの印象だが、この団地からは、オーバハウゼンとエッセンで見た、いわゆる「労働者住宅」とちがって、建物とその配置には、田園都市とコンパクトな都会居住との融合をめざした建築家ハンス・W・エッゲリンクのイデーが感じられた。建設がやや後、1910年代にはいっての新しさのせいもあろう。
 そんな思いをめぐらせて歩いていたとき、道で黒人女性に出会ったので、家賃のことを聞こうとしたら、ことばが通じなかったのか、2階の4LDKを購入して、いまはローンも終わり、とっても幸せとだけまくしたてて立ち去った。団地の住宅か外の住宅のことか開けなかった。団地のベランダいっぱいの洗濯物は、トルコ人、アラブ系住民の多さをうかがわせる。団地のすぐ近くに大きなモスク(イスラム教寺院)があった。

『住宅団地 記憶と再生』 東信堂



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