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海の見る夢 №45 [雑木林の四季]

         海の見る夢
            ―クロイツェル・ソナター
                    澁澤京子

 一昔前、「○×式教育」というのが批判されていたことがあった。・・「○×式教育」で育てば、何が正しく何が正しくないのかをはっきりさせないといけないと思い込む。人生にも正解があると思ってしまう・・そこで、単に文化やその時代の社会状況によるもの、あるいは解釈の問題に過ぎないものを、あたかも「絶対的な正しさ」のように思い込み、とんでもなく間違った方向に行ってしまうことがある・・しかし、最も大切なのは自分とは違う他人に対する寛容さであり、「心の余裕」を持つことではないだろうか?イスラム原理主義も自爆テロも、私たちにとっては決して他人事じゃないのである。

「清らかさ」と「潔癖」は全く異質のものなのであって、人の「潔癖さ」が集団化すると、たとえば民族浄化のような恐ろしいことにもなるのである・・「潔癖さ」は往々にして優越意識につながりやすく、人にはもともと自分と同じ価値観の人間を好む傾向があるうえに、さらに「潔癖さ」と優越感が加われば、独裁政権やファシズムにおける異分子排除となる。

本当の「清らかさ」とはもっと柔らかな、包容力のある優しいものだと思う。どんなに自然が多様性に寛大で包容力あるかというと、誰一人として同じ人間などいないではないか。自然が人を癒すのもその懐の深さゆえだろう・・

だからといって「なんでもあり」というわけではない。多様性が前提としてある社会では、差別主義も排外主義も「多様性の否定」につながるので、(社会を破壊する存在)に分類されるだろう。ナショナリズム、復古主義や権威主義の持つ、視野の狭いものの見方が広がりつつあるように見える今日この頃。

『チェチェンへようこそ』という映画を観た。チェチェンでの同性愛者に対する拷問、暴力、虐殺から同性愛者たちを守るため、国からの脱出を手伝うボランティアたちのドキュメンタリー。目を覆いたくなるような実際のリンチ、暴行シーンも多い。(安全を守るため、出演者の顔は加工してある)『イージー・ライダー』の、閉鎖的な村で行われる、自由な異端者に対するようなリンチと虐殺が、国家によって行われるとは・・(ロシアは黙認しているが加担しているのと同じ)特に、女性の同性愛者は、家族によって迫害され、一家の恥なので家族によってひそかに殺されることも少なくないとか・・・ボランティアのスタッフも警察に狙われることが多く、LGBTの人権を守るためには、まさに命がけなのである。恋人を守るため、どんなに拷問されて殺されそうになっても口を割らなかった若い男がやっと脱出してヨーロッパに亡命。やがて、恋人も男の後を追って亡命してくる・・空港での再会のシーンには思わず涙腺が緩む。愛のためにお金も地位も祖国も投げ捨てたものの、ヨーロッパの片隅で、言葉もわからず、仕事も見つからず、お金もなく、将来も全く見えないため、次第に口喧嘩が多くなるカップル・・(せっかく亡命して避難しても絶望のあまり自殺を図るものもいる)どうか、権力なんかに負けないでほしい。

「・・・しかし、真の愛情とは何を意味するんでしょう?」~『クロイツェル・ソナタ』トルストイ

トルストイの『クロイツェル・ソナタ』は、冒頭で汽車に乗り合わせた男女が「愛と結婚」をめぐって議論することから始まる。女性は夫に従順で教育のないのがいいとする保守的な田舎の老人と商人は、女性にも同権を主張するヨーロッパ風にロシアが染まってゆくことを嫌っている。それに反論する進歩的な考え方の女性、そして黙って話を聞いている初老の紳士。「結婚には真の愛が必要ですわ。」という若い女性の言葉を受けて、「結婚には本当に愛があるんだろうか?」と問い返すのがこの白髪の紳士なのである・・この紳士はおもむろに自分が妻を殺害したことを告白し、一同は押し黙る・・男の妻はピアノをたしなんでいて、バイオリン弾きの若い男と一緒に演奏していたが、ある日帰宅した紳士は二人が不倫関係にあると妄想し、妻を殺めてしまう。この小説では、妻が実際に不倫していたかどうかは問題ではない。「愛とは何か」というのがこの小説の中の最も重要な問いで、この紳士の語る結婚生活、喧嘩をしたり仲直りしたりの夫婦の関係にはリアリティがあり、本当にどこにでもいるカップルなのである。トルストイは主人公の口を借り「上流階級の婦人が娘を着飾らせて資産家に嫁がせようとするのと、自分を高く売り込もうと着飾る売春婦と、いったいどこが違うのですか?」と売春婦を見下す人々を批判する。また、子供への愛もエゴイズムに過ぎないと語り、打算も性愛も愛ではないとしたら、いったい真実の愛とは何なのか?をトルストイ自身が自問しているような小説なのである。

~ですから音楽は人をいらだたせるだけで、決着はつけてくれないんです。『クロイツェル・ソナタ』

実際、主人公の妻とバイオリンの名手が「クロイツェル・ソナタ」を伴奏したとき、主人公は感動のあまり普段嫌っているバイオリン弾きに熱烈な握手さえ求めているのである。ところが家を空けて出張に行っている間に、ふと、妻とバイオリン弾きの不貞を揺るぎもない事実のように思い込んでしまう。急いで帰宅すると、運悪くバイオリン弾きが妻とピアノの練習をしていた・・そこで、悲劇が起こったのである。

この小説はトルストイが「性愛を罪深いものとし、否定して純潔の愛を求めた~」(新潮文庫・原卓也翻訳)と解説されているが、トルストイはむしろ、愛は音楽のように決着のつかない、とらえがたいものだと言っているんじゃないだろうか?音楽は恋愛のようにはかなく、とらえどころがないので、主人公を感動させ興奮もさせれば、また暗い妄想も抱かす。音楽というのは人の無意識にあるものを明るみにするのだ・・ベートーヴェンの『クロイツェル・ソナタ』では、ピアノとバイオリンはどちらも同等に演奏される協奏曲であり、まるで男と女の会話のようであり、それは女性は男性と対等であることはできるか?という汽車での議論にもつながってゆく。冒頭の引用「‥誰でも情欲を抱いて女を見るものは心の中ですでに姦淫を犯したのである」にあるように、『クロイツェル・ソナタ』で一番問題とされているのは、主人公の妄想と狂気であり、妻とバイオリン弾きの関係ではない。「放蕩」とは小説の中で主人公が述べているように肉体関係そのもののことではなく、女性問題をお金で安易に解決することなのであり、つまり、愛という形のないものに白黒で決着をつけてしまうことなのである。愛は、音楽と同じように決して決着のつかないものなのだ・・

~・・「私は何を知っているか。何を教えうるか」という疑問に答えることを避けるために、例の人生観の中に、そんなことは知る必要がない、しかも思想家や詩人は無意識に教えうるものであるという一公式を含むように造られた。私は自分を優れた文学者で思想家であると思い込んでいたから、そこで極めて自然にこの説を採用した。私は思想家であり、詩人であったが、自分の知らないことを書いたり教えたりしていた・・『懺悔』

トルストイの自問自答と自己批判は、1887年に書かれた『懺悔』にもすでにある。大作家という地位がありながら、「私は何を知っているか?」と、ここまで真摯に自己批判、自己否定できるトルストイという人はなんて正直で誠実なんだろう?チェーホフに批判されたように、トルストイは貧しい人々を多少美化する傾向はあるとはいえ、決して頭の固い「潔癖」な人ではなかったのだと思う。完全な人などどこにもいないように、トルストイもまたそうであったのだ。

~神を知ることと生きることは一つである。神は生命である。~『懺悔』

映画『終着駅』では、トルストイを聖人として祭り上げる取り巻きと、トルストイの妻との争いが描かれている。聖人か?芸術家か?私は聖人のようなトルストイよりも、『クロイツェル・ソナタ』にあるような、自問自答し、煩悶するトルストイのほうが人間的で好きなのである。トルストイが今のロシア、ウクライナの状況を見たら一体なんて思うだろうか?

人を自問自答に導くもの、内省をうながすもの、それこそ真の「理性」ではないかと思う。


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