SSブログ

山猫軒ものがたり №5 [雑木林の四季]

 犬の言い分

              南 千代

 夫が、仕事で一週間ほど家を留守にすることになった。山の中では不用心だし淋しいだろうと、友人から犬を借りてくれると言う。
 犬は、国立市に住むイラストレーターの橋爪さんの犬で、ジーナという雌の老犬である。毛足が長く、飼い主によると年のせいで暑さに弱いそうだ。連れて来られた真夏の午後、ジーナはべろんと舌を垂らし、はあはあと息をしていた。慣れない私を警戒するでもなく、従順な犬のようだ。
 早朝と夕方の涼しい時間を選んで山を散歩させ、私とジーナの数日が過ぎた。
 大型の台風が近づいている。朝からの雨が、夜になると風を伴い強まってきた。縁側の雨戸はガタガタと音をたて、出入り口を開けると、吹き降りの雨と風が土間になだれ込む。台風は夜半に東京地方を通過するらしく、いっそう激しさを増した。
 懐中電灯を片手に長靴を履いて庭を横切り、便所に行く。ついでに、納屋の隅につないでいたジーナを、今夜は土間に入れてやるつもりだった。
 犬の姿が、どこにも見あたらない。外れた鎖だけがある。大声で呼んでみたが、そこらにいる気配はない.飼い主が傭かしくて脱走したのか.台鳳が怖くて、逃げ出したのか.よりによって、こんなときにいなくなるなんて。
 私は合羽の上下を着こむと、付いているフードを深くかぶり、懐中電灯を肩から斜めにかけ、夜の森へ向かった。
 納屋と便所の間を抜けて山に入る。朽ちかけた稲荷の小さな社を左手に、林の下をおおう薮を分けて下ると、千年杉の池に出る。そこから小高い山を斜めに登り、一の谷へと下る。また斜面を登って二の谷へ。
 すべらないように手元の枝につかまりながら坂を降り、篠廿の間を進み、沼の原へと向かう。私は、ジーナを散歩させた道を捜した。
 たたきつける嵐に、木々も草原も深々と大きく叫んでうねり、雨のしぶきが顔を打つ。草の波に腰まで沈みつつ、横殴りの風雨の声に負けないように犬の名を叫んだ。周囲は電灯を向けた先しか見えない。黄色くぼやけた光の輪の中に、ジーナの姿が飛びこんでくることを期待しながら、私は呼び続けた。
 二時間ほど山を歩き回っただろうか。あきらめて家に戻った。犬は心配だったが、とんだ暴風雨のナイトハイキングに体が疲れた。トタン屋根を激しく打つ雨の音が、外界のすべてを遮断してくれた。犬の行方を考える間もなく、眠りに落ちた。
 雨戸の隙間から障子を通して、光が射し込んでいる。友だちからの電話で起こされた。
「大丈夫だった? あちこちで崖崩れがあったらしいけど、なんともなかった?」
「……」
 まだ、頭が動き始めてくれない。
「眠れなかったんじゃない?」
「いや、犬のおかげでぐっすり眠れたよ」
 私は答え、ぼんやりと、借りてきた犬が逃げ出したおかげで、が正しい言い方だと思い直し、そうだ、犬、犬、犬。犬を捜しにいかなくてはと考えていた。
 受話器を置き、勢いよく雨戸を開けると、世の中が一度にまぶしい朝に変わった。光の中で、水蒸気が地面から立ち昇っている。そして、その向こうには、泥だらけのジーナが立っていた。つながれていないのでうれしいのか、しつぼをふっている。こいつめ。帰ってきていたのだ。
 ジーナを連れて、台風が過ぎ去った山に出かけた。長靴は、中までぐっしょり濡れたままで、足の裏がふやけそうだ。時おり、靴の下で地面が滑る。足元から蒸気を立てて広がる大地に包まれ、木々も草も、雨と太陽のエネルギーをいっぱいに吸い取り、存在をみなぎらせている。空気さえもが、ずっしりとした質量の濃きに満ちているようだ。
 葉先を伝う透き通った滴の中では、虹色の光がぐるぐると渦巻きつつ急速に充満して膨らみ、次から次へと、はちきれんばかりに謳いながら大地へこぼれていく。
 草を倒し、土色に濁って流れる水。濡れた岩影をすり抜ける、しっとりとつややかなトカゲ。せっせと糸を手繰り始めたクモ。頭上に冷たい雫を落としながら、枝を渡るヒヨドリ。苔の匂いを放つ空気、崖一面に光る、ドクダミの白い十字架の花。
 あたりに在るすべての現象が燦欄と美しく、私という営みにつながっていく。草の葉の細胞のひとつひとつが私の命となり、私の命が幹を這う羽虫の中にすべり入ってしまうような。
 と、シダの集をかすかに慕わせ、草むらを分けて小さな風が通り過ぎた。思わず、あたりを見回す。
 数え切れないほどの生命が、天に地に、降りそそぐように輝いていた。
 カヤの原や篠竹の薮を抜け、水田に出る。泥水につかってツンツン伸びた青い稲。あぜ道の真ん中に立っていた太い桐の木が、根元近くで二つに折れ、白い木肌を見せていた。
 夫が戻り、ジーナも飼い主の元へ帰って行った。犬を一週間ほど飼ってみると、そこらで見かける犬が、急に気になり始めた。たまにフラフラと谷に下ってくるイカ太郎にも声をかけてみようかという気になった。
 イカ太郎はくび輪のないのら犬で、最近、集落をうろついている。人の姿を見ると、サッと逃げるのだった。のら歴が長いのだろう。小型の犬だが、顔だけが妙に四角ぼっている。何かのマンガに出ていたイカ太郎という犬によく似ていた。
 家のそばにイカ太郎が現れた。声をかけ、エサを投げてみた。エサは食いたし、近づきたくはなし。イカ太郎はじっと離れて銀子をうかがい、こちらがあきらめて家の中に入るのを見届けると、すばやくエサだけくわえて走り去る。
 そんなことを何回かくり返したある日、イカ太郎は庭先までやってきた。チャンスだ。私はこの犬を捕まえて、飼おうと思っていた。夫と二人、左右から犬の行く手をさえぎりながら、うまく土間へ追込んだ。それからが悪戦苦闘。追いかけたが、イカ太郎は外に出ようと座敷から台所まで、あたりかまわずモノを蹴ちらしながら家中を走りまくった。
「いいかげんにしてよ」
 と、私は犬に怒鳴った。
「そう言いたいのは、犬のほうかもしれないよ。もう、あきらめなさい」
と、夫が言った。私たちは、捕ま、芸のをやめた。イカ太郎は、エサの保証には耳も貸さず、すたこらと逃げていった。
「フン、エサになんかだまされてたまるけ、え。一生、鎖の人生なんかオイラはまっぴらよ。食いもんぐらい自分で捜さあ」
 マンガであれば、後ろ姿にそう吹きき出しがついていそうな逃げ足だった。
 イカ太郎に逃げられてがっかりしていたところへ、朗報が舞い込んだ。友人の塩田さんの家に仔犬が生まれて、もらい手を捜しているという。
 すぐに訪ねた。母犬のモンクから産まれた仔犬が四、五匹。誰かが塀の中に捨てていったという仔犬が二、三匹。じゃれあって遊んでいる。どの犬にするか選びきれず、また、一匹だけを仲間からひき離すのもためらわれ、結局、私は三匹の仔犬を抱えて山猫軒に帰った。
 一匹は、白い毛がムクムクとして茶のプチが入った、太った元気そうな犬。一匹は動作が機敏でいかにも頭がよさそうな茶色の犬。もう一匹は、引っ込み思案で、床の下からなかなか出てこなかった、白く弱そうな犬。
 元気な雄には為朝、賢そうな雌には小町と名づけた。おずおずとした雌の仔犬は、明るく美しくなるように華(はな)とした。
 為朝は、小さな溝に落ちてもすぐにキヤンキヤン泣いて助けを求める甘えん坊だったが、誰にでもよくなつき、愛敬者であった。小町は、率先していたずらをしたり、サークルから脱出を図るリーダー格のおマセさん。人見知りをして隅に逃げてばかりいた華も、夜はいつも膝に抱いて眠らせてやると、少しずつ私たちにも慣れ、二匹の後からついて走り回るようになった。

『山猫軒ものがたり』春秋社


nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。