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地球千鳥足Ⅱ №7 [雑木林の四季]

孤独と共存・・趣味はセミプロの域まで

       小川地球村塾村長  小川律昭

 長く生きるということは、「老い」と「孤独」との戦いである。

 今、緑に囲まれた静寂の、林の中の家に一人で住んでいる。動くものはリスと小鳥。「ピアサーピアサーピッ」という小鳥の声を頻繁に耳にする。木々の下枝の葉がゆっくりとゆれる。クリークから微風が流れているのだろう。広い三十畳の居間、テレビとコンピューターと電話、ファックス、情報設備に囲まれて発信受信をする以外にはやることがない。これで今年の残りの半分を過ごすとなると、やはり飽きてくる。孤独な生活をしていると、何かの拍子に脳梗塞になって倒れたって誰にも気づかれずそのまま静かに眠るだけだ。

 刺激のない異文化社会にぽつねんと存在する自分を、繰り返し反省しながら生きていると必然的に年金生活者の人たちに思いがいく。ご同輩たちはその日その日をどう生きているのか。社会に関わって楽しく生きている人は少ないのではないか。何をしていてもよいが、毎日自己管理のもとに生きている喜びをひしひしと実感しておられればよいのだが、などと…。

 二十年後には六十五歳以上の世帯主が、全世帯の三六%、一七二〇万世帯まで膨れあがり、地方によっては四〇%近くまで到達するといわれる。確実にその仲間入りをする自分を思う時、いかに老後を過ごすかは切実な問題と思える。二十年後の八十八歳までは生きてはいないだろうが、その間の暮らしのあり方を考えてみよう。

「老後とはそれまでの暮らしの解答である」といわれるが、健康、経済状況以外に孤独の克服も大きな課題だろう。私についていえば健康については今のところさして支障がない。年齢以上に元気であると思う。孤独については、今のところ何ら対策を講じていない。夫婦が元気でいるうちは、たとえ口うるさく罵られても孤独感は伴わない。話す開いてがあり食事の準備も必要なければ。

 ところで昨今は、日本とアメリカを夫婦が大体別に住み、時々一か月ぐらいずつ、アメリカで一緒になったり日本で一緒になったりの暮し。一人の時は疑問にぶちあたり色々考える。地域の交流や友達付き合いはアメリカでは少なく、趣味の油絵をやり始めても飽きっぽいから長続きしない。だから旅行、絵画、エッセイ書きを気のむくままに興ずる現在の生活では、孤独を満たすだけの価値があるかどうか疑問に思えてくる。趣味を価値判断すること自体おかしなことで、価値はあると思えばあり、ないと思えばないものであろう。

 たとえ趣味の領域であろうと綿密な計画を立て、その成果を公表出来るまでの域に到達させることである。それなりの努力とエネルギーを投入しなければならないだろう。かつて実業家であった田子富彦氏が八十歳にして「今度、三越劇場で舞台に立つことになった」と言われた。若かった私はその時は何となく聞いていたが、今になって思えば田子氏は退職後、老いても生き甲斐を求め、孤独の克服に精進されたのだろう。医者である森永寛先生は同じ八十歳でドイツ語会話を勉強していると言われた。「今からドイツに行くわけではないが原書を読むと面白さが倍加するから」と。

 先輩連の考え方と実践努力を参考に、趣味も玄人領域まで継続させなければ意味のないこととわかっている。もともと嫌いでやる趣味はないはず。ただ、すぐに相性への疑問や能力の限界を思ってしまう私は、努力が苦手なだけではなかろうか。旅行の場合は体力と好奇心が重要だから気楽に継続出来るだろう。孤独からの解放はそう真剣に考えなくても、身体さえ動けば心配しなくてもいいだろう、と自身を甘やかしてしまう。多くのご同輩はそれぞれ孤独と戦いながら、打ち込める対象をつくり精進を重ねておられるだろうか。
(二〇〇〇年三月)

『万年青年のための予防医学』 文芸社



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