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山猫軒ものがたり №1 [雑木林の四季]

山猫軒は森の中 1

            南 千代

 声が聞こえる。閉じたままのまぶたの上で、軽やかなリズムが踊る。生まれたてのやわらかな光たちが、さざめき合い、何かを話しかけている。
 体の奥深く沈んでいた意識が、ゆらゆらとたゆたいながら、カタチを現した。私は、長い時を眠り続けていたらしい。ひと晩のようでもあり、十年の間だったかもしれない。
 めざめ。朝の始まり。

 枕もとの障子を全部いっぺんに開けて、縁側の廊下に立った。あ、夏だ。夏がやって来た。夏の匂いがする。季節はいつも、こうしてある日突然に私を訪れる。
 鶏たちはもう、庭を歩きながらエサをついばんでいる。犬たちは、キユンキユンと喜んで縁側に足をかけ、散歩の催促だ。
 庭先からは、青草に茂る野原が南へと広がり、野辺の小径がその間をぬいながら、森へと誘うように続いている。ヤマユリの香りをかすかに学んだ透明な風が、大地を渡ってきた。
 こうしてはいられない。三匹の犬たちとさっそく森へ飛び出した。後ろから、黒猫のウラも引率者みたいについてくる。
 湧き水の沢蟹を数え、朝露に濡れた栗林を駆け、ジェットコースターの坂は犬と競走だ。ターザンの岐れ道をアケビの蔓でひとっ飛びすると、丹沢・富士の丘。遠く西に、富士山がくっきりと見える。
 大きく伸びをして深呼吸。クローバーのじゅうたんに大の字にころがると、テントウムシがあわてて顔の横から飛び立った。
 山猫軒から南へ。周囲約十キロの一帯は、一軒の人家もない山猫の森。ここでは、時間も空気も生き物も、あらゆるものが力いっぱいに輝いている。

 山猫の森、別名、東京都町田市の図師・小野路歴史環境保全区域。
 周辺の地形はなだらかに起伏してシイやカシ、アカマツの林や草原が続き、昔ながらの多摩丘陵の典型的な自然と景観を保っている。
 森の中には、昔の城跡やいわれある井戸、八幡跡などの史跡が、自然のまま林に隠れるようにひっそりと点在していた。
 山猫軒は、この森のはずれに立つ、一軒の小さな民家である。
 夫、三十四歳。私は二十九歳の初夏。「空気と水のきれいな所で暮らしたい」という夫の希望をかなえるために、私たちは、都心・神宮前のマンションを後にした。
 カメラマンである夫は、撮影の仕事でフランスやスウェーデンなど、ヨーロッパに滞在することが多かった。滞在の度に郊外を旅した。その緑あふれる環境に夫は、自分もいつかは豊かな自然の中で生活を、と願っていたようである。

 ある日、国立の喫茶店「ひょうたん島」でコーヒーを飲んでいた夫は、隣に座った木工家の西野さんから、山の中にある空家の情報を得た。
 夫はすぐにその足で家を見に行き、庭先から森が広がる理想の環境に、その場で借りることを決めてしまったという。ひと月の家賃は、仕事場として麻布に構えているスタジオの、月極駐車場料金より安かった。
 私が、初めてこの新しい住まいに案内されたのは、日もとっぷりと暮れた夜であった。自宅から、西へ車で約一時間。山の中の小径に車を停めた夫は、うれしそうに言った。
「さあ、着いたよ、ここだよ」
 車を降りて、私は周囲を見回した。
「え、どこに家があるの」
 車のライトが消えると、周囲は真っ暗。黒い木立ちにうっそうとおおわれ、家どころか灯りひとつ見えない。家は谷あいにあり、車は入らないと言う。
「ここからは、歩くんだ。ほら、足もとに気をつけて」
 夫が、懐中電灯をつけた。地面にパッと明るい輪ができた。土だ。地面が、全部土である。意識して郊外に出かけたわけではなく、生活の延長線上に突然、土の道が現れたので、私はへンに驚いてしまった。
 狭く急な山道を、夫の後についておそるおそる下る。谷に降り立ち、あぜ道を少し歩くと、家の影が、静かに姿を現した。木戸を開き、庭に入る。土が、靴の底に柔らかい。家の土間に足を踏み入れると、中では、古くたわんだ空気が幾重にも層をなしていた。
 私を連れてくる前に、夫はすでにこの家の修理をコツコツ始めていた。土間に置いたブリキのストーブに薪を入れ、手慣れた様子で火をおこしている。自分の大好きな音を聞くために、スピーカーやアンプなどもすでにセットしてあった。
 家の話は、夫から開いていたはずだった。しかし多分、「聞いて」いなかったのだ。私は、コピーライターとして勤めていた東銀座の広告プロダクションを辞め、フリーになったばかりであった。これから、どう仕事を続けていくか。どのように生きていくか。自分のことだけで、頭がいっぱいだったに違いない。
 懐かしい匂いがしてきた。錆つきかけた、プリミティブな本能の回路が少しずつ刺激されるような感触。薪の燃える匂いだった。
 エリック・ドルフィーのアルトサックスが流れてきた。夫も私も、沈黙。こういう空間で、ことばを下手に発すると、空気が貧弱になり、修復するのに苦労する。別に話す必要もないので黙って開いた。
 庭に出た。濃い霧が降りている。谷あいのせいだろうか。空気は、絞れば今にもポタポタと滴が垂れそうだ。周囲の様子は全くわからない。あたり一面、蒼い乳色の海で、まるで無人島にでも渡ったようだ。家と庭だけが、瑠璃色の海にポッカリと浮かぶ島である。
 湿った空気は、ストーブの煙突から流れてくる薪の薫煙をほどよく含みつつ、夜に冷やされて上質の酒のように甘く鼻腔を満たしながら、体の中に浸みていく。
 足の下は、黒々とした土であった。手にすくってみた。湿った土の匂いがする。あたりまえか。でも、こんなふうに土を意識して感じたことがあっただろうか。土はほぐれて、ポロポロと指の隙間から、足元にこぼれていった。
 何だかひどく切ない安堵感。
 これまで。朝も夜もなく、倫理も暮らしもくつろぎも夢もなく。仕事だけにがんばってきたけれど。そうするしかなかったので、それが間違いだったとは思わないけれど。
 もしかしたら知らず知らずに、私はとても自分に無理をして、不自然に生きていたのかな。ここでは、肩を張らずに素直になれそうな気がする。

『山猫軒物語』 春秋社



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