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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №86 [文芸美術の森]

        喜多川歌麿≪女絵(美人画)≫シリーズ
         美術ジャーナリスト  斎藤陽一
         第14回 晩年の筆禍事件

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≪寛政の改革≫

 上図は、歌麿が享和4年、51歳の時に描いた絵本『青楼年中行事』の中の一図(部分)です。
 壁いっぱいに大きな孔雀を描いている絵師を、遊女たちが感心して眺めています。
 この絵師は歌麿自身とされていますが、写実というよりも、理想化した絵師として描いたものでしょう。

 寛政年間に絶頂期を迎えた歌麿でしたが、絵師にとっては、まことに厳しい時代でした。

 寛政期に、老中・松平定信は、たがのゆるんだ幕政の立て直しや奢侈になじんだ社会構造の引き締め(風俗取り締まり)を図って、いわゆる「寛政の改革」を推進しました。定信は、情報・思想統制にも力を入れ、出版の取り締まりを強化しました。浮世絵も、その対象とされます。

 たとえば、寛政8年には、美人画に女性の実名を刷り込むことが禁止され、寛政11年には奉行所による錦絵の検閲が一層強化されて、ついには、寛政12年、美人大首絵そのものも禁止されるという事態となりました。これは、歌麿にとっては痛烈な打撃でした。

≪歌麿晩年の筆禍事件≫

 下図は、歌麿が最晩年に描いた歴史画「太閤五妻洛東遊観之図」という3枚続きの錦絵です。この絵が、歌麿を、思わぬ筆禍事件に巻き込んでしまったのです。
 一体、この絵のどこがいけなかったのか?

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 これは『太閤記』に題材をとり、豊臣秀吉の「醍醐の花見」の場面を描いたものです。

86-3.jpg 秀吉が、五人の妻妾を伴って、野外で花見の宴を開いている。その近くには側近の石田三成もいる・・・。
秀吉や三成の実名も、妻妾たちの名前も、短冊状の枠内に書き込まれています。
 これがいけなかったのです。

 当時、天正年間(1573~92年)以降の「武家」を描くことも、その名前や紋所を記すことも、厳しく禁じられていました。

 そのような厳しい状況の中で、歌麿は、絵師として、したたかにこの時代を生き抜いてきたのですが、ここにきて、その御法度を破ってしまったのです。

 その上、『太閤記』を主題にしたとあれば、見方によっては“反徳川の絵”とされかねない。

 おまけに、この絵の描写が、禁断の江戸城大奥への連想を誘う怪しからん絵、と見られかねない。

 この頃には、戯作本などの作者や他の絵師などにも逮捕者が出ていて、歌麿もかねてから当局に睨まれていたのかも知れない。
 文化元年5月、歌麿53歳頃、この絵によって、幕府の禁令を犯した罪で逮捕されました。その結果、取り調べ中の入牢3日のあと、「手鎖50日」の刑罰を受けました。

86-4.jpg 「手鎖(てぐさり)の刑」というのは、刑期中はひょうたん型の鉄の枷(かせ)を両手首にかけられ、五日ごとに、錠に施された封印が改められるという、自由剥奪の刑罰です。

 晩年に入っていた歌麿には、この事件は、肉体的にも、精神的にも、相当つらかったようで、他人から見ても、憔悴しきっていたと言います。
 
 結局、その2年後の文化3年(1806年)9月20日に歌麿は世を去りました。生まれた年が宝暦3年(1753年)頃だとすれば、享年53歳でした。

 喜多川歌麿について、これまで 14回にわたって語ってきました。
 歌麿は、生涯、錦絵(彩色版画)は2000図以上手掛けたと言われ、さらに肉筆画も40点以上残しています。
 この「喜多川歌麿『女絵』」シリーズで取り上げた作品は、その一部に過ぎませんが、歌麿ワールドの魅力に触れていただけたとしたら幸いです。

 これで「喜多川歌麿」は終わりとして、次回からは、歌麿より30~40年程前の明和年間に、錦絵の世界に新風を吹き込んだ絵師・鈴木春信の作品を紹介します。


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