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梟翁夜話 №115 [雑木林の四季]

「恋しや、赤ひげ」

      翻訳家  島村泰治

なんとも寂しい、只管《ひたすら》に寂しいのだ。喰い物に飢えているわけでなく、辺りの景色が侘しいからではない。生きる目途を失って、その心悲《うらがな》しさから寂しいのではさらさらにない。米寿を目の前に残された時間を如何にせんかと、目途はむしろより歴然と明らかだからそれが故の寂しさなどでは到底ない。じつは、映画の例の「赤ひげ」がいないことの寂しさが辛いのだ。

映画で三船敏郎が扮した江戸の医師赤ひげ、実名は覚えぬがさう呼ばれて親しまれた町医者の豪快な生き様は、所詮は映画の虚像にせよ、医家たるものかくあるべしとの生きる証として懐かしい。さて、それがなぜ寂しいかの説明にはやや手間が掛かる。

儂は世田谷に長年馴染んだ医師がをる。年に四、五回、予防医学とて挨拶を兼ねて訪れるのだが、M先生のごく人間的な扱いに心休まり、こと一身の健康に関してはその言葉には満幅の信頼を抱いて疑うことがなかった。なかったとは、それが例の流行り病の蔓延までであり、あれ以来それが揺らいでゐることを示唆してをる。直近の診察では、その揺らぎが高じて、降圧剤の服用を中断してくれまいかと進言してそれを納得させるなど、従来は考えもしなかった挙動に及んだのだ。

何故にと問はれれば、それは医療へのトータルな不信感が沛然と芽生えているからと説明せねばならぬ。何故に今かと問われれば、例の流行り病に絡む医療体制の歪み、薬剤や所謂ワクチンの処方をめぐる歴然たる不明乃至不正が露見するに及び、製薬企業と医療体制それに医師会に代表される病院と医家の広範な医師集団の不可解な挙動も垣間見えて、儂の視界がぐんとぼやけたのだ。その画像の隅に、わが愛すべき世田谷の医師の姿も見え隠れる。何が寂しいと云って、近頃これほどの寂しさはない。

直情径行を自認する儂は、早速に日頃摂る薬群を疑い始める。女房どのが心込めて料理してくれる自然食をいいことに、世田谷から処方される体内脂肪云々の薬が切れたのを切っ掛けにはじき、降圧剤は例の処理で摂取中止、今はただ血液サラサラなる一錠だけになってをる。他にはビール酵母などの食品補助剤を数個摂るだけで、あわよくば遠からず薬剤フリーたらんことを標榜してをる次第。

世に国際金融資本(DS)なるものが実在し噂の悪行を恣《ほしいまま》にしているなら、道徳心豊かなはずの日本はこれを敢然と諌めて、このほどのパンデミック禍に立ち向かうと思いきや、病院に拒まれ町医者に背を向けられた陽性者たちが自宅療養を強ゐられる異常事態が発生するに及び、果てはわが日本が何とその支配下にあるかの如き有り様が露呈。闇雲にワクチンを打ち続ける仕草には、信じ難い狂気の裏打ちが明らか、不要と判れば破棄すれば済むワクチンを、それもできぬ契約で雁字搦めになり、あろうことか重症化の心配がない子供にまで打ち続けるとは!日本本来の道義は何処にありや?

そこに至って儂の一念は怪しげな推測に及びさへするに至る。薬作りが商売の薬屋は、患者が絶えては商売にならぬ医者の望みを叶えんと、病を癒す薬ならぬ常に薬の要る病を作る薬を盛り、医者は喜んで患者に薬ならぬ薬を山ほど処方、儲けを薬屋と分けあって北叟笑《ほくそえ》むとの図柄だ。昨今発生している一連の現象を鳥瞰すれば、これが強ち推測ともいえぬのが心悲しい。

あの赤ひげがこの有り様を見たら何と云はうや?絶句して立ち竦むや、「医師ども、何たる不行跡か」と拳を振って怒るに相違ない。儂はそんな赤ひげの姿を見るのが辛い。こんな有り様を見せねばならぬ寂しさは例へやうがない。せめて日本だけでも真面に振る舞って欲しいと思ふのは独りよがりか。何の役にも立つまいが、あの映画を無性に見たくなった。

今年一月から三月までの国内死亡者数が前年より3万8630人も多いとか。(参照:https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA021SU0S2A600C2000000/)ワクチン推奨期に重なる異常値だ。そんな悍《おぞ》ましい現実を知ったからには、ほぼ二か月後、定例の診察に伺う例の世田谷のM先生の真顔が見られるか、冷静な会話が成り立つのか、いま、そのことをしきりに気に病むのだ。了


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