SSブログ

海の見る夢 №35 [雑木林の四季]

     海の見る夢
        -My Favorite Thingsー
                澁澤京子

 ~民主主義とは往々にして保守的で、見てわかる美しさや美学を求めがちなのだ。
~『民主主義は趣味が悪い』グレイソン・ベリー

トランプ前大統領が就任時、グッゲンハイム美術館にモネの絵を貸してほしいと頼んだところ、グッゲンハイム美術館側は丁重にお断りすると同時に、金ぴかの便器(現代アートの作家の作品らしい)をお貸ししましょうか?と提案したそうだ。この話で連想したのは秀吉の黄金の茶室。秀吉がお金を使って豪華なものをつくり、権力を誇示すればするほど、どこ吹く風とミニマリズムの美を追及した千利休。一部の現代アートがそうであるように、千利休も、反権威・反体制だったのかもしれない。

トランプ大統領就任時のホワイトハウスの壁には、歴代共和党大統領の歓談する様子が描かれた絵画が飾られていたらしい。そう、トランプ大統領が「差別して何が悪い」の白人至上主義の本音で人気を取り、「内と外」を明確に分け、「家族中心の古き良きアメリカ」など「わかりやすさ」をアピールするのに対して、マーク・ロスコなどモダンアート作品を好んで壁に飾っていたオバマ前大統領は、トランプ支持者から見るとただの「気取り屋」にしか見えないかもしれないが・・

なぜ、ここで政治とアートの話を出したかというと、物事の判断基準というものが失われているのは、政治の世界でもアートの世界でも似たような状況だからだ。価値観の相対的な世界で、人が確かな拠り所を喪失すれば、普遍的な基準になるのは「貨幣価値」となるのかもしれない。「高額なもの」がいいとか、「安価だから」いいとか、あるいは、SNSの「いいね!」の数やアマゾンの星の数のように、皆がいいと思うものは良いものだ、と判断し、人の好みというものもますます「わかりやすさ」と画一化の方向に向かっているような気がする。つまり、人の好みまで、まるで民主主義の一般意志のような平均的なものになっていく感じ。

ルソーが『エミール』で理想とした自然人である個人の意志と、一般意志というものには乖離があって、そこからすでに矛盾があるのだが。(いいね!を押すのも、選挙で投票するのも自分の意志、意見ではなく、既成の意見を選択)しかも、多数決で決まるものは、たいてい私の意見とも好みとも違い妥協しないといけないものが多いのだが・・

さらに相対的な価値観の不安定な社会で、民主主義はやがて支配被支配の独裁制となってゆくだろう。自分で決定できない不安感は、役割の決まっている支配被支配関係や他人志向の強い人を増やすからだ。独裁体制・ファシズムが嫌うのは「個人」と「自由」なのである。(ナチスはモダンアートを退廃芸術として排除した・・)

フラット化された世界で評価されるものは、当たり障りのないものか、「わかりやすい」ものが多いのに対し、現代アートの方はデュシャン以後、ますます知的になって先鋭化、エリート化、過激化、多様化して「わかりにくく」なっている。そしてその「わかりにくい」現代アートに目玉が飛び出るような値がつき、その顧客、コレクターはもちろん富裕層。(資本主義を批判しているバンクシーの絵が、すごい値段をつけられて富裕層の間で取引されるという皮肉な状況に)

要するに、便器だろうが、ストリートアートであろうが、資本主義批判であろうが、なんでもかんでもアートになりうるし、なんでもかんでも「貨幣価値」で測るという時代に私たちは生きているのだ。(トランプ大統領が、なんでもありの政治状況をつくったように)

経済格差が広がったように、「わかりやすさ」と「わかりにくさ」、同一性と多様性の格差が広がったような気がする・・

アメリカでは、保守派とリベラルの分断が言われている。ジョナサン・ハイトの『社会はなぜ右と左に別れるのか』がすごく面白かった。人がリベラルになるか保守になるかは、家庭環境の影響よりも、遺伝子による決定が大きいのだという。幼児の時に、「自己防衛心が強く」「慎重な性格」であり、「集団に合わせる」といった特徴があると帰属意識が強く家族中心で国家を重んじ、権威や伝統を好む保守になりやすく、「好奇心が強い」「活発」「独立心が強い」「言いつけを守らない」という個人主義の特徴を持てば自由を重視するリベラルになりやすい、という。これって確かにそういうところがあるかもしれない・・一概には言えないが、私の周囲を見ても、子供の時早熟で自律的だったか、あるいは大人の言う事を聞かなかった感じの人は左派が多い。また、保守が社会的慣習を倫理と同一視しがちなのに対し、リベラルは普遍的な倫理を求めるという事だろう。もちろん人生経験によっては保守の性格の子供がリベラルに、その逆もあるのだという。

昔、友人の夫(フランス人・五月革命の世代)から「小泉は右翼」と言われたことがあった(当時首相)。サルコジだって右翼じゃない、というと「だったら小泉はウルトラ右翼だろう」と。ちょうど、靖国参拝でもめていた頃。その時はじめて、フランス革命を経たフランスがもともと左翼の強い国であり、社会福祉などが充実した国であったことを知ったのだった。かつては日本も(その平等ゆえに限りなく社会主義に近い民主主義)と言われていたが、目立って右傾化し始めたのはやはり郵政民営化、イラク戦争の頃からだと思う。右翼と言っても、権藤成卿や赤尾敏のようなイデオロギーを持っているわけじゃなく、敗戦をそのまま引きずった親米反共でさらに靖国ロマンという性格を持つのが、今のいわゆるネット右翼だろう。戦後のGHQには二つの派閥があって、日本を理想的な民主主義国にしようと考えたインテリの穏健派と、軍事力で米軍に協力させようとするタカ派に分裂。穏健派のイーディス大佐などがタカ派に敗れアメリカに帰国させられ、その後、朝鮮戦争。日本の保守が根強く親米反共であるのはこの辺の経緯と関係があるし、下山事件もこのGHQの闘争と関係があるといわれている。

最もリベラルというと「理性」の重視と言われるが、私も別に「理性」で判断していたわけじゃなく、「感性」とか「感情」でまず判断し、後付の「理性」、理屈で正当化していた・・つまりアートと同じように、政治でもまず「感性」「感情」で反応していたということだ。(イラク戦争の時も、脳ミソを吹き飛ばされたイラク人の子供の写真を見て衝撃を受け、イラク攻撃に反対したが・・)今の時代の右派、左派は、イデオロギーの対立というより、むしろ個人の性格や育った環境の影響などの違いが大きいんじゃないだろうか。ちょうどトランプ支持・非支持者の違いが階層の違いであるように。

民主主義というのは、どうしても個人ではなく派閥になってしまうところから問題が出て来るんじゃないかと思う。「意見」は個人が発信する限り別に問題はないが、それが集団化すればどうしても圧力や暴力になる。「何をどう感ずるか」も画一化されれば、集団圧力になったりステロタイプなものにならざるを得ない・・

昔、上野にMOMAが来たとき、幼稚園の息子を連れて観に行ったことがあった。「ほら、ピカソよ!」と促しても目もくれず、人ごみを抜けて走ってどこかに行ってしまった息子。息子を探したら、やっといました、大きな絵の前で口を開けたままじっと立っている。ポロックの絵だった。画集を見ただけではあまり興味のなかった画家だけど、こんなにすごいとは思わなかった・・ポロックの息づかいや生のリズムまで直接伝わってくるような迫力。息子はポロックに魅入られてまったく動けなくなっている。ピカソやダリの絵の前では人だかりがあったのに、ポロックの絵の前は皆通り過ぎるだけ。こんなに立ち止まってじっくりと観ているのは幼稚園の息子だけだった・・

アートを鑑賞する原点はやはり、子供のように無心の状態で観ることだと思う。有名だとか、評判とか、どうでもいいことだ。しかし、白紙の状態で物事に向かい合うことほど難しいものはない。白紙で向かい合うことができれば、作品のほうから語りかけてくるのである。「何が好きか」「何を美しいと感じるか」は多数決で決められるようなものでもないのだ。

もちろん現代アートは無心で観ればわかるものだけじゃなく、作家によっては知識がないとわからないものもあるが。(同じように現代音楽も難しい・・)

優れた芸術の「わかりにくさ」が面白いのは、「わかりにくい」は頭の中にずっと引っかかっていて、ある日急にわかることがあるからだ、人生経験を積むことによって、やっと腑に落ちる時がある。最近の日本のポップス聴いていると、歌詞で「~君が好きだよ、なぜなら~」という風な余計な説明が多すぎる。日本映画やドラマのセリフを聴いていても、説明するセリフが多く、逆に心に残らないことが多い。世の中が「わかりやすさ」を求めているうちに、本来、日本人が得意とした、言葉と言葉の間や余白を読み取る詩的な感受性や美意識が退化したんじゃないだろうか。

お金と手間をかけた秀吉の金の茶室よりも、その辺にあるような普段使いの茶碗を大切に掲げた千利休。人が見過ごすような日用品に美を見出し、沈黙を重んじ、(茶碗の中に宇宙を見る)日本人、お能のような洗練された芸能を持っていた日本人の感性。(お能は形式がしっかりしているので、逆に時代を経ても自由度が高い芸術らしい)デュシャンがなぜ美術館に便器を持ち込んだのか、ゴッホはなぜ履き古された一足の靴に美を感じたのか、千利休だったらきっとわかって共感したに違いない。不協和音によってはじめて音楽が調和するように、美というのはもっと複雑で多様なものなのである。

重要なのは、アーティストの発信するものを受け取るこちらの感受性なのだと思う。そういう意味でAIに芸術を創造するのは無理ではないだろうか、アーティストはやはり真実を追い求めるだろう。それを私たちがいかにキャッチできるのかであって、特に、現代アートは、それを鑑賞する私たちの感性や解釈する能力のレベルが問われるようなところがある。もちろん、それはすべての芸術に言えることであって、受け身の反応、「いいね!」や「美しい」、あるいは周囲に同調するだけではAIと同じで、受け取る感性も解釈する能力も決して鍛えられない。皆が美しいと思うものを惰性で美しいと思い、ロボットのような感受性となり、ステロタイプな感想しか言えなくなるだけだろう。アートというのは政治と同じように、こちらも能動的に参加して一緒に体験するものではないだろうか。

―なぜなら、美しいものは、人々が保存しようと思わないために、消え去ってしまうからです~マルセル・デュシャン

ゲルハルト・リヒター(現代アートの作家)は、ランダムに選ばれる宝くじの抽選番号に注目した。別に何でもない数字が偶然選ばれることによって意味を持つように、何でもない風景が急にイキイキと自分とつながっているような感覚を持つことがある・・偶然だと思っていたものが、突然、必然であったことに気が付くような、あるいは波長が何か大きなものとぴったりと一致する瞬間である。美とはそうした瞬間に、まるで恋のように生まれるものじゃないかと思う。

茨城のり子さんの「自分の感受性ぐらい 自分で守れ、バカものよ・・」という詩がやたらと心に沁みる今日この頃なのである。多数が正しいと思っているものが本当に正しいものなのか?画家にとってモティベーションが最も重要であるように、人の意見でも最も重要なのはそのモティベーションだろう。モティベーションが弱いと、周囲の顔色をうかがうか、他人の揚げ足取りのようなつまらないことしかできないだろう。ネットを離れ、自分の感受性を大切にすることは、決してぶれない自分の軸を持つことなのだと思う。


nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。