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海の見る夢 №31 [雑木林の四季]

        海の見る夢
        -ドン・ジョバンニ~モーツァルトー
                澁澤京子

   ~おまえはおのれから逃げ去ることはできない~ゲーテ

 映画『アマデウス』で、「ドン・ジョバンニ」の最後に登場する石像(騎士団長)が、指揮しているモーツァルトには自分の亡くなった父親に見えるというシーンがある。まるで自分自身と現実から逃避するかのように性愛や美食の快楽を追及してきたドン・ファンの前に、ついに重く固い大きな石像が立ちはだかる。ドン・ファンは石像にがっしりと手につかまれて、いくら手を振り切ろうとしても振り切れない。『アマデウス』の、「石像=父性」は、世界というものを夢幻のように無責任に観照する人生を歩んできたドン・ファンの前に、いきなり現実の重さと厳粛さが立ちふさがる感じだろうか。 
昔、キルケゴールの『反復』を読んでも、さっぱりわからなかった。かつてキルケゴールには恋人がいたが、結婚直前になってなぜかキルケゴールのほうでいきなり婚約を解消する事件があった。『反復』というからには恋人と再会したのに違いない・・ではなく、キルケゴールの場合、婚約を解消したところで終わる難解な哲学小説になっている。

『反復』で重要になるキーワードは「想起」と「反復」。想起はプラトンの想起(イデア)であり、さらに「反復」。その二つが一体何を指すのか、さっぱりわからなかったのである・・

―エレア派の学徒たちが運動を否定したとき、周知のようにディオゲネスは反対者として歩み出た。彼は本当に歩み出た。つまり、一言も口をきかずに二,三度、右へ左へ行きつ戻りつしたばかりであった。―

冒頭に来るのがこの文章。エレア派のゼノンは、有名な「飛ぶ矢は飛ばない」で物質の運動を否定した。そこでヘラクレイトス「万物は流れる」の変化運動の流れをくむディオゲネスがそれに対して無言で反論したのである。エレア派の「静止した飛ぶ矢」がプラトンのイデア、つまり静止した一点だとすると、それに反論するディオゲネスの右往左往の運動が「反復」ということらしい。

―ギリシャ人はあらゆる認識は「追憶(想起)」であると教えたが、同じように新しい哲学は全人生は「反復」であると教えるだろう。この点にうすうす感づいていたのはライプニッツただ一人であるー

ライプニッツの瞬間は、過去にも未来にも依存するものであり、瞬間には過去も未来も含まれる「開かれた状態」で運動が起こる。ライプニッツのモナドは内側に外界の情報を抱合しながら(樹木に年輪があるように)世界と関係するものであり、個人の場合だと「各人の個体の概念はその人にいつか起こることを一度に含んでいる」(モナドロジー)、多様性を含んだ個人が、外側の多様な世界と関係(情報交換)する、ということになる。(ニュートンの普遍的な絶対時間に対し、ライプニッツの時間は存在個々の関係性によって決まる)

―まるで自分自身と話してるかのような、一つのイデアと話をしているかのような気がするのです・・-『反復』

キルケゴールの婚約者レギーナは非常に聡明な女性だった。話をするとまるでキルケゴールは自身の心の奥底の言葉を聴いているような気分になったらしい。相性がいいと相手の言葉は心の奥底まで届いて自覚につながる、御互いに心が開かれているからだ。キルケゴールは理想的な婚約者に対して、次第に臆病な気持ちを抱くようになる・・彼にとって、彼女は人間というよりもイデアに近いものだったからだ。キルケゴールは聖職者の道を選ぶため、彼女を永遠の存在(イデア)にするために、彼女の元を去った。

人は己から逃れるためにはなんでもする。手っ取り早い方法として、読書、映画、音楽鑑賞や旅行、掃除や仕事に熱中する、SNSの書き込みなど気晴らしになるものだったらなんでも己から逃れる方法となるし、スピリチュアルや自己啓発、精神世界の本なども、一時的に(自分が変わったような)気分になる方法となる。レベルの高いものとして、芸術活動に専心するなどがあるが、坐禅や瞑想も己を忘れるための手段なのである。

つまり、星空を見上げて自分の小ささを知るように、誰でも簡単に人生を夢幻の様なはかないものとして鳥瞰図的に眺める視点を持っているのである。しかし、己から逃げるだけのこうした受動的・消極的な生は人生を(夢のようなものとして)ただの傍観者として終わるだけだろう。(ドン・ジョバンニのように)特にSNSのある今、生も死も軽いものとなり、ますます人生に傍観的、受動的ゆえに他人に影響されやすい人が増えているような気がする。他人志向が強く、人間関係でも個人で対峙することができず必ず他の人間を巻き込んで複数にして対峙する、流行のアニメを追い、自分の考えを持たず、他人の意見をうのみにし、自分と違う意見には相対主義者となってまったく耳を傾けず、結局(みんながいいと思うものはいい)という価値観を持つだけ。そのため言葉は表層的なものになり、自身に対しても表層的な言葉でごまかしていれば、それだけ他者とのつながりも稀薄になるだろう。

―愛の業は愛のない仕方で、利己的な仕方でさえなされることがあるー

見せかけにこだわる人間は(穏やかで優しく)他人に見えさえすればよいのであって、実は人間関係をギブアンドテイクや役に立つ・立たないでドライに割り切って考える人が多い。彼等にとって愛というのは他人に表面的に優しくするだけのことなのであり、陳腐な言葉で自分をごまかすことなのである。自我が未熟であると本気で他人と深い関わりを持つことができない(自己愛が強く傷つくのを恐れるから)自我が未熟であるのと、自我がないのとは全く違うことなのである。(いったん成熟した自我を消去するのが無我だろう)

―自己自身を理解することが、ほかのすべてを理解するための絶対条件であるー

能動的・倫理的に生きるためには、まず単独な個人としての自覚と自律が重要になってくる。「反復」はまさに厳粛な人生そのものなのである・・

―反復とは、何か新しいものになるだろうと何も期待しない人だけが幸福になることー『反復』

つまり幸福とは、自分から逃げずに自身を十全に生きる人だけに与えられるものなのである。ここで「ヨブ記」が出てくる。キリスト教の学校に通ってよかったと思うのは、宗教倫理が社会道徳とは(十戒とも)別のもので、自分で追及するものであるという事に気が付いたことだろうか。子供の時「ヨブ記」を読んでも(次々と災難がふりかかる可哀そうな善人の話)でしかなかったが、自分が困窮した時にはじめて「ヨブ記」がすごくリアリティのある話であることに気が付いた。失敗したり困窮した時に限って、お説教好きの人間が寄ってきて、お説教されて(善意ではあるが)ますます傷つくところも同じなのだ・・聖書や小説の言葉がはじめて(腑に落ちる)感じがキルケゴールの時間を超えた「反復」なのである。つまり、レギーナの言葉が彼の心の奥底にいつまでも生きていたように、書物の言葉が自分の経験として生き始める。ヨブの訴えの言葉に比べると、友人たちの(因果応報)などのしたり顔のお説教がどんなに偽善的な空々しい言葉に見えるだろうか?倫理とは、まず自分の心に正直になることなのであり(正直とはトランプのように己の下品な本性を暴露することではない)自分の怒り、苦しみや哀しみに正直に向かい合うことなのである。

受動的に流されて生きるだけでは決して平和を実現することはできないどころか、集団の価値観に巻き込まれて気が付かないうちに他人を排除したり、暴力的になることも往々にしてある。SNSによって、多くの人とつながりながら実は「孤独」な人がすごく増えたと思う。何も考えずに他人に表面的に同調するだけではますます孤独を深めるだけである。

『反復』は、個人個人がアトム化した閉ざされた世界で、あるいは表層的な死んだ言葉による浅いつながりしか持てない今の時代に、個人が自分自身を掘り下げて自律することにより、逆に他人に対して開かれた柔らかい心を持てるようになることを教えてくれる。他人に流されない成熟した自我を持たない限り、他者との本当のコミュニケーションも信頼関係も持てない。人と人は生きた言葉によってはじめてつながるのである。


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