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梟翁夜話 №110 [雑木林の四季]

「聡太君の入れ知恵」

            翻訳家  島村泰治

例へ数へでも米寿と聞けば心穏やかならず、立ち居振る舞ひも人並みに老爺らしくおっとりとして来るから妙だ。煎じ詰めれば、たしかに足腰は弱体化してゐるし物忘れも人ほどではないが無くはない。周りがしきりに歩けと急かし、自分でもさうかと折々に出陣するがそれは一日二日、長くは続かずに歩かぬ日が続く。そんな日々にある日、一片の朗報が届く。

朗報とは他でもない、例の将棋の天才、藤井聡太竜王(二十歳を待たずにすでに五冠、A級に上り詰めて名人位も指呼の身だ)は散歩について何とも味のある感想を述べたとの報道だ。盤を前に駒を並べまくる日々、周りが散歩を勧めるのは当然で、ならばと聡太君、ある日散歩を試みたと云ふ。どこをどう歩いたか、散歩から帰っての感想に曰く、「往きはとまれ帰るのが億劫だからこれを最後にもう歩かぬ」、と。

私は庵近くのグリコ工場を周回して三千五百歩を目掛けて歩くのだが、その無作為性が嫌いで滅多に出向かぬ。そこに聡太君の名言が飛び出し、遥か年若のこの天才が将棋のみならずレトリックにかけても並々ならぬ才を潜ませてゐることに、驚きかつ感心した。グリコを周回する無意味さは、彼の帰路が辛いとの感覚と並行しており、散歩など何たるものぞ、の依怙地に通じてをる。

散歩の虚しさを紛らす手立てと、私はウオークマンにデータを仕込んで聞きつつ歩くことにしてをる。データの量を加減して近道を選び遠道も試みる。それはそれで歩く動機付けにはなるのだが、帰るのが億劫だからほどのズバリ感はない。あれを聞いて以来、私の散歩はめっきり減った。行きはよいよいとはよくぞ申された。何ぞが見たいからと散歩に出たまではいいが、それが遠道だったら帰るのがきつい、見たければ車でいけばいいまでだから、取り敢えず不毛な散歩は辞めとこう、となる

実は私の散歩観もどうやら遠からずで、散歩するからには先で見たいものがあるか否かが励みになる。重い腰を上げて歩くからには、歩くごとにその励みが欲しい。運動のために散歩する曰くや道理は判っても、グリコ周りのやうに、見るものとて何も無いまま只管《ひたすら》ひたひた歩く単調が何とも耐へ難い。ウオークマンとて、そんな人間のうさを晴すには限度があると云ふものだ。

帰るの億劫だから散歩は止すと喝破する聡太君の潔さが何とも眩しい。眩しいのだが、ほいほいと追随するには流石に躊躇する事情もあるのだ。聡太君が将棋盤なら私には文机、ほぼ四六時中座《ざ》して過ごす場所である。動き回ることは稀で、勢ひ脚の萎えること夥《おびただ》しい。時折の畑仕事でも二十分ほど毎に座り込む情けなさ、側の目にもさぞ痛々しからう。それを思えば脚力は何とかせねばならぬ。室内サイクルもあるが効果は知れてゐる、やはり実地の歩行訓練が地味だが効率がよいとは知らぬではない。懊悩《おうのう》が尽きぬ道理だ。日頃から私の散歩を促す仕草を絶やさぬ女房どのの気掛かりも分かるだけに、聡太君の一件に動揺する私を咎める目付きが一際厳しい。

となれば、折角の彼の啓示(?)を活かすに何か他の手立てを考えねばならぬ。気を引き締めて考える。運動に散歩は格好だ、遠くへ行き過ぎて帰りが億劫になった、散歩は懲りた・・・情報はここまでだ。散歩は懲りたが運動をせぬ、とは聞き及んでおらぬ。まだ十代とはいえ聡太君は並みの人物ではない。将棋盤に張り付いた生活の不健康は十分すぎるほど知ってをられやう。だからこその散歩の試みだったはずだ。

はたと思ひ当たる。聡太君には常人にない特異脳があるではないか。他ならぬ読みの力、将棋の手を探り尽くす読みの力だ。AIをも凌ぐと云ふ「手を読む力」、散歩は止めたと決める裏にこの力が働いてゐたら、「歩かぬ代わりにこの手を打つ」との読みがあるとしたら・・・。さうだ、聡太君は散歩を凌ぐ対策を読み切ってゐたと考えるのが至当だ。もう歩かぬと云ひながら、きっと他の手立てを考えてをる筈だ。室内サイクル然り、水泳然り、若さで試みる手立てが豊富だらう。ならば、聡太君の入れ知恵を幸便に散歩を止めるのは拙速の極み、読みにせよそれは文字通り勝手読みだ。

と気づいた私は、聡太君に肖《あやか》って自分なりの読みを深めることにした。コロナでスポーツクラブを中断、好きな水泳をできなくなって健康維持の手手立てがぐんと減ってゐる。室内サイクルか所詮は散歩か、それとも新機軸の運動を企てるか。ここ一番、将棋こそ手は読めぬが、聡太君に倣《なら》って奇策を練ってゐる。いずれ何やらの思ひつきをご報告する所存だ。

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