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海の見る夢 №27 [雑木林の四季]

          . 海の見る夢
                   -バッハ平均律クラヴィーア第一ハ長調―
                  澁澤京子

 坐禅をしていると、時折、身体の中身が空洞の仏像のようになることがある。遠くの音が自分の身体の中の空洞で響いたり、普段は頭の中にあるはずの意識?が周囲全体に広がっていて(これをとりあえず意識と呼ぶ)、内と外という感覚がまったくなくなる。アッと思ったとたんにその感覚は消え、周囲に広がっていた意識はまた頭の中にすっぽりと納まり、肉体感覚と身体の重さが戻ってくる。日常的な時間感覚と普段の意識が戻ってくるのである・・だから私にとって(日常の意識=時間=重い)という感じになる。

接心に参加して、何日か坐禅をし終わったあとは、あまり寝ていなくても頭の中がスッキリと爽快で、風景が透明にくっきりと見え、参加する前よりもエネルギーに満ち満ちて元気になってしまう。坐禅している間は、日常の重い時間意識をあまり持たないで済むせいなのかもしれない。

M・マッスィーミ、J・トノーニ、二人の精神科医と神経生理学者が書いた『意識はいつ生まれるのか』によると、人は小脳を取り去っても「意識」は残るらしい。(小脳とは、ピアノを練習して弾けるようになるなどの反射運動や、欲望などの無意識をつかさどる場所だとか)また、意識が常に過去のものしか知覚できないのは、意識が情報を統合する働きを持つのに時間がかかるからであり、その統合する性質が人の時間感覚となるのだそうだ。
人は多くの情報に取り囲まれている、意識はその多様性を一つに統合する、そのため私たちは光を光と認識し、闇を闇と認識できるのだとか。

子供の時、朝、ベッドから左足で降りるか右足で降りるかによって、まるであみだくじのように一日の流れが変わってくる、人は常に一つしか選択できなくて、なんて不自由なんだろうと思ったが、それも、意識が多様性を一つに統合する性質を持つせいか?誰しも、(あの時、ああすれば・・)という経験を持つだろう、あの時、バスに間に合えば・・とか。あの時、バスの乗り遅れたのは、寝坊したからだ・・寝坊したのは前の晩遅くまで起きていたせいだ・・遅くまで起きていたのは・・と原因はますます複雑になり、無限に遡及できる。原因というものは、ひとことで片付くほど単純ではないのだ。

~人間は自己の行為及び衝動を意識しているが、自己をあるものに感ずる諸原因は知らない~スピノザ「エチカ」第四部

原因は無限に遡及できるため、スピノザは人に自由意志はないと考えた。(遡及していくと結局、私が私であるから・・に行き着くと思う)ルターの自由意志の否定は(神のみこころのままに)であり、スピノザの自由意志の否定は(必然)となる。スピノザによるとすべての存在は神の顕れなのであり、必然を受け入れることは神を愛すること。スピノザの「自由」とは、自身の必然(本性)に沿って主体的に生きることなのであり、スピノザの神は自然の摂理であり、それゆえ、多様性と個性を尊重するのである。

^~理性はおのおのの人間の本性と一致することを必然的になすことになる。~「エチカ「第四部

必然には、善悪も完全・不完全もない。スピノザの理性は、悟性という「論理」ではなく、プラトンのイデアに対する「直観」と同じじゃないかと思う。すると、どうすれば私たちは自分自身の本性(必然)と一致して生きることができるのだろうか?

~人間は受動という感情にとらわれる限り、相互に対立的である。「エチカ」第四部

スピノザにとって、理性のない受動的な生は悪に傾きやすいものなのである。ここで私が連想するのは「ヨブ記」。周知のように、ヨブは正しく生きる人であった、悪魔に試されたヨブには次々と災難がふりかかり、ついに、ヨブは神に抗議する。不幸のどん底にいる人間がそうであるように。切実なヨブの神への訴えが、いつ読んでも感動的なのは、そこには赤裸々な一人の人間がいるからだ。人が本当に自分自身に正直になるのは、そういった切羽詰まった状況にある時なのであって、ヨブは自分の運命をすべて受け入れた時に初めて、自身の真の主体性を見出したのだと思う。どん底に落ちる前のヨブは正しい人であったが、あくまで社会の規範に沿った受動的、表面的な正しさでしかなかったことに気が付いたのだ・・スピノザの(必然)とは生きる力なのであり、人がそれぞれに持つエネルギーの形であり、本当の自由は人それぞれが、本来持っている必然(エネルギー)に気が付くことからはじまり、理性に導かれて主体性を持つとは、プラトンの言う「正義は自分のなすべきことをなす」ことなのである。ヨブは神と出会う事により、はじめて本当に生き始めたのだと思う。

~精神の最高の徳は神を認識することである。~『エチカ』第四部

スピノザの考えは、世界を関係性で捉えるところとか、仏教に似ているところがある。昔、「エチカ」の読書会に参加した時はさっぱりわからなかったけど、坐禅するようになってから、ところどころわかるようになってきて嬉しい。もちろん、スピノザと仏教は違うところがある。仏教は無自性で本質を否定するが、スピノザは本質(本性)は同一としながら、自然が多様性に富んでいるように、個々の違いを重視するのである。また、スピノザは仏教やキリスト教のように「死」を見つめない。スピノザはあくまで生を肯定する「生」の哲学者なのである。スピノザの哲学は音楽に似ている。

スピノザは欲望を否定しなかった。欲望とは「自分の有に固執しようと努める力」だからだ。この、自分の有に固執する力の源は、現在の神経医学では中核意識というらしい。ずっと昔から変わらない一貫した自己の感じがそうで、「自己」の根源にあるのは言語ではなく、この生命を維持する働き、ホメオスタシスなのだという。こうした自己が破壊されると人間の身体は危険な状況になるとか・・『意識と自己』アントニオ・ダマシオ著 参照

スピノザの言う理性的な人間は、自分の本質を知っているのであり、自分にとって必要以上の欲望を持たない。すべてを懐疑するデカルトと違い、スピノザの真実は人と人、人とモノの関係にある・・スピノザの真実とは身体感覚を通して知覚する「生」そのものであり、デカルトのように身体の存在まで懐疑しなかった。(デカルトの懐疑・此の世は脳の見る夢?みたいな)スピノザの蔵書には医学書が多かったという。

SNSの登場による、身体感覚を喪失した言語とイメージだけのコミュニケーションが、むしろ人を分断化したのは、言語が、物事や人の微妙な違いを無視して同一のものにしてしまうからだろうか。言語のみのコミュニケーションにより、ますます自分にとって都合のいい情報、自分と同質の意見を持つ人間同士でかたまるようになり、そうした偏りから陰謀論などが生まれてきたのだと思う。AIには虚構と現実の区別がつかないが、バーチャル社会で詐欺やフェイクニュースが横行するのも、もっともだろう。ウクライナ報道のすぐ後にグルメの紹介とか、ますます世界は狂気じみた虚構のようではないか。リアルな共感や感動という身体を基礎にした感受性が失われるという事は、次第に倫理も失われることなのじゃないだろうか。倫理が失われるという事は、共通の基盤も失われるという事で、プーチンの狂気と誇大妄想(偉大なロシア?)も、そうしたリアル感覚の喪失から生まれたとしか思えない。

ウクライナ攻撃で、東京のロシア料理店が嫌がらせされるとか、SNSは、人間性や、人と人との微妙な違いを無視するところがある。文字とイメージだけの安易な判断は、どんな国にも様々な人間がいることを忘れて容易に一括りにしてしまう。どんな国にも自国が誤った方向に進んでいること、自国の過去の過ちを批判できるまともな人間がいるのであって、イメージで一括りにされた人間など存在しないのである。存在するのは生きている個人だけなのだ・・暴力は多様性を一括りで捉えようとするところに、すでに潜んでいるのじゃないだろうか。

言葉というのは、わからないものを(わかったつもり)にしてしまうところがあり、それは凶器にもなりうる。対立感情は、イメージや言葉だけのほうが増幅しやすいし、また、「みんなちがってみんないい~金子みすず」も言葉のみで捉えれば、何でもありの世界になってしまう。子供が殺されるとか、動物が虐待されることや自然破壊に対する不快感は生理的なものであり、倫理のベースには、そうした身体感覚があるのだと思う。

スピノザの理性は「汝自身を知れ」に尽きる。理性は私たち人間が自然の法則の一部であることを教えてくれる。しかし、自分を知ることほど難しいことはなく、たいがい、他人の偏りは目についても自分自身の偏りには盲目的となる。自分の偏りに気が付くためには、他者の視点が必要になってくる。人はどうしても、他者を排除した同質の集団でかたまる傾向があるが、苦しみや痛みや歓びの共有が他者との絆になることもある・・特に苦しみや痛みの共有というのは、文化・価値観を超えた他者との通路になることが多い。多くの苦しみの経験をした人が他者に対して寛大さを持つのは、たくさんの通路を持っているせいなのかもしれない。

~徳を教えるよりも欠点を非難することを心得、人々を理性によって導くかわりに恐怖によって抑え、悪を逃れるように仕向ける迷信家たちは、他の人々を自分と同様に不幸にしているのにほかならない~『エチカ』第四部

オードリー・タンの母親は「自律した子供を育てる」ユニークな学校を経営しているが、先生を選ぶ基準は「何か夢中になるものを持っていること」と「はっきりした自分の倫理基準を持っていること」なのだそうだ。二つとも、主体的に生きることで自発的に芽生えてくるものだろう。外側から強制されたのではない、自発的な倫理感覚を持っていることは重要で、どんなに年とっても倫理というのは経験によって自分の中で育てていくものじゃないかと思う。というのは、年取ると逆に無意識の中に潜んでいたガラクタのような偏見が出てくることもあるからだ。(無意識というのは玉石混合なのである)

原因が否定されるので未来を志向せず、スピノザの哲学には必然的に希望も目的もない。しかし、今、この瞬間を子供の様に無邪気に歓ぶ明るさがスピノザの「善」なのであり、社会のような外側から強制されるものはむしろ善を損なうものなのだ。スピノザによると、強制と抑圧からは、高慢、卑下、自己憐憫、後悔、嘲笑、阿諛追従、恫喝、憎しみや妬みといった悪が生まれやすいのである。自分自身であること、主体的に生きることが逆に周囲と調和することなのであり(抑圧がかからないのでストレスをためにくい)、それはちょうどフリージャズで、各プレイヤーが自由でありながら同時におのおのの規則に従って周囲と見事に調和するような感じに似ているんじゃないかと思う。

~「ジャズの場合、演奏者はあらかじめ自分で定めた規則の中で自由に演奏できるわけだけど、その規則を時間の流れとともに自由に変更できるので、より自由度の高い演奏、あるいは場合によってはより自由度の低い演奏を選択することができる。そうすることによって、演奏の起伏や高揚感、そして始動感や終結感が生まれてくるのだと思う。」←友人談

世の中では、状況に合わせて柔軟な対応していかないと生きていけない。決して周囲に流されることなく柔軟に生きるためには、自発的な倫理・価値観(すなわち自分で定めた規則)を持っていることはとても大切だと思う。そうしたものは、身体感覚・経験であるとか直観が教えてくれると思う。

スピノザと同時代に生きたバッハ。バッハというとルターのキリスト教信仰がよく出て来るが、バッハの音楽はリズミカルで、非常に身体的な音楽と思うのである。(バロック音楽がダンスのための曲が多いせいだろうか?)バッハがスピノザを知っていたのかどうかはわからないが、磯山雅さんの『バッハ』によると、バッハはすでに時代遅れとなったポリフォニー音楽をかたくなに守った。デカルト以後、人間の「主観」というものが重視され、人間中心主義になるにつれ、主旋律が中心となるホモフォ二―音楽が主流になっていくらしい。バッハはポリフォニーを守ることによって人の主観とは別の神の視点を音楽に取り入れたという。多様性とは客観性を持つことであり、それは様々な視点を想定することなのである。私たちはミツバチの見る世界すらよくわかっていないし、自分自身の中にも、善も悪もすべてを抱えているという意味でポリフォニックな存在なのだ。

^~バッハにとっては数学への挑戦こそ、自由への挑戦そのものであった。-中略―~本当の自由とは多元的価値を許容するものでなくてはならない。人間に許される自由とは基本的にポリフォニックなものでなくてはならないのだ。~『バッハ』磯山雅

世界も、私たちの身体も、本来は多様でポリフォニックな、精妙な働きを持つのである。

もやもやとした気分の時にバッハを聴くと、心が安らぐ。平均律という人工的な音階が人の気持ちを安らげるのは、人の身体というものが秩序と正確なリズムを好むせいだろうか。あるいは、バッハという人がその深いキリスト教信仰によって、人間というものを見据えていたせいだろうか?

数学という抽象に挑んだバッハの音楽が、なぜこれほどまでに人を感動させるのだろうか?

バッハの平均律第一のハ長調のシンプルな曲が好きだ。なんだか明るい気持ちになる。人それぞれの本性(エネルギー)も、ハ長調、ロ短調という具合にあらかじめ性質が決まっていて、人の人生というのは、それぞれのエネルギーの性質に従い、まるで音楽のように様々なバリエーションで反復して展開されていくものじゃないかと考えてしまう。

スピノザの「必然」。音楽には、あらかじめ決められた規則があり、規則があるからこそ人はいくらでも自由に演奏できるように、人は自身の必然を知ることによって、はじめて自由に生きることができるのかもしれない。演奏家にできるのは、いかに与えられた限りある生を自由に美しく演奏するかなのである。バッハの美しさも、ジャズの躍動感も、各々の規則に沿っているからこそ生命感にあふれているのである。限定があるからこそ、人には無限の自由がある。

バッハの平均律を聴くと、漱石の「一度起こった事は形を変えて、また繰り返す・・」『道草』という言葉を思い出す。個人にはそれぞれの性質、癖のようなものがあって、人生ではそれが様々な形となって、反復するんじゃないだろうか?そして、それは人間の歴史のような長いスパンで見てもそうなのかもしれない。

 

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