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論語 №123 [心の小径]

三八五 子貢、仁を為さんことを問う。子のたまわく、工(たくみ)その事を善くせんと欲すれば、必ず先ずその器を利(と)くす。この邦(くに)に居るや、その大夫の賢なる者に事(つか)え、その士の仁なる者を友とせよ。

         法学者  穂積重遠

 子貢が仁を行う方法をおたずねした。孔子様がおっしゃるよう、「大工が善い仕事をしようと思えば、まず、のみをとぐようなもので、仁を行うにはまずもって自身の仁徳をみがかねばならぬ。それにはその国々で、太夫の賢い人をえらんでこれに事え、仁徳あるの士をえらんでこれを友とすることが肝要じゃ。」

三八六 顔淵(がんえん)、邦を為(おさ)むることを問う。子のたまわく、夏(か)の時を行い、股(いん)の輅(ろ)に乗り、周の冕(べん)を服し、楽はすなわち韶舞(しょうぶ)、鄭声(ていせい)を放ち、倭人(わいじん)を遠ざく。鄭声は淫に、倭人は殆(あやう)し。

 「くに」というところに「国」を書いたり「邦」を書いたりしているが、「邦」の方が意味が広いらしい。古註に「顔子(がんし)は王佐(おうさ)の才なり。故に天下を治むるの道を問う。邦を為むるは謙辞なり。」とあるのに対し、中井履軒(りけん)いわく、「邦は国と天下とに通じて言う。謙辞にあらず。」

 顔淵が天下を治める道をおたずねした。孔子様がおっしゃるよう、「過去歴代の長を採らねばならぬ。すなわち暦法は、夏(か)の太陰暦が農事に便利だから、これを用いる。
車は、股のものが倹素で堅牢だから、これに乗る。冠(かん)は、周のものが華美ならず粗略ならず中正を得ているから、これをかぶる。音楽は、申すまでもなくかの善を尽し、美を尽した舜の詔の舞楽じゃ。そして鄭(てい)の国の歌謡曲のような俗楽を放逐し、弁口のみのへつらい者なる倭人を退け遠ざける。俗楽はみだりがましく、倭人は国を危くするぞよ。」

三八七 子のたまわく、人遠き慮(おもんばか)りなければ必ず近き憂いあり。

 孔子様がおっしゃるよう、「人に遠い将来までの見通しがないと、たちまち足元からのわざわいが起るぞ。」

 「遠慮」という言葉が別の意味に転用されているが、元来は文字どおり先の先までを考えて用心することだ。将棋の方では「よみ」というようだが、名人上手となると、こう行けばああ来る、これを捨ててあれをとると、局面の変化を終盤まで考えてみた上で手をさす。われわれは「ヘボ将棋王より飛車を大事がり」、目の前だけの行きあたりバッタリで、たまに考え込んでも「下手の考え休むに似たり」だから、勝てっこはないのだ。

『新訳論語』 講談社学術文庫



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