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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №54 [文芸美術の森]

 《雨法隆寺塔》1

    早稲田大学名誉教授  川崎 浹

 ここで措いたわけではないが、野十郎がまだ自分の手もとにおいて見つづけていた絵に《窯冊法隆寺塔》がある。《春の海》を描いた画家が絵を前にして私に言ったように、ここでは画家は「雨を描いた」と言うにちがいない、絹糸のような雨模様である。画家は雨の降る法隆寺ではなく、法隆寺を借景にして雨を描きたかったとでも言いたげだ。
 画家が訪れてきた「女先生」に「雨が見えますか」と聞いたので、彼女は「ええ、見えますよ」と答えた。高島さんにとってはこれは禅問答に準ずるほどの重要なやりとりだったのだ。雨がまず第三者に雨として知覚されるか、そうしてこの雨が見る者の目にどのように映じるのか。「雨が見えますか」という問いには自分に見えている通りに第三者にも見えているだろうかという訝りがある。
 野十郎の『ノート』に雨を詠った歌が五首ある。

 花に降る春雨なれど奈良によし
 唐傘なくも堂や間はなむ

 奈良の雨、今春なればぬるゝこそ
 我が身のさちと思ひ知るなれ.

 春雨と我も世間も思へども
 秋篠寺は瓦にぞ降る

 花も散りし今日ぞ春雨ふり降りて
 薬師の塔にしづくたらせよ.

 冬雨を秋篠寺にふらせては
 この世の事のあまりつれなし

 いずれも寺院に降る雨に我が身を託して、意味深長な思いをしのばせた歌である。他方、絵で法隆寺を扱った作品が複数ある。そして和歌と絵の両方から雨にたどりついたのが《雨法隆寺塔》である。
 二〇号の油彩のカンバスに納まった五重塔。繭(まゆ)のように細い、見えるか見えないほどの線で、きれぎれの雨がいちめんに真っ直ぐ引かれている。カタログの絵では曇り空に姿を隠している雨が、串刺し型の尖塔や五層の塔身、さらに下って背景の回廊や門や樹木、そして前景の石灯籠まで落ちてくると、ひっそりとではあるが、にわかに存在感をあらわす。塔は雨の向こうの淡い世界に後退するが、奥に沈むことなく、また高くそびえもせず、微妙な均整を保っている。

 この繊細な風景を写真で表現することはできない。なぜなら同じ風景を写真で撮るにしろ、《雨法隆寺塔》をそのまま図録に複製するにしても、原画にただよう雰囲気の最後の五ポイントが消えてしまうからである。他の殆どの画家と異なり、野十郎の作品の独自性はその五ポイントにあり、それは画家が研究を重ねたキャンバスや絵具といった物質レベルでの堅牢、恒久性と、技法レベルでの油彩という絵肌、素材の官能性を駆使する入念な手法によって醸成されている。「かれの独学は保存Ⅰだけでなく、自らの細密描出が表面的なイメージの創出に終わることを避けるために果たされたのではないか」と西本氏は指摘している。(この項つづく)

『過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍社



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