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医史跡を巡る旅 №90 [雑木林の四季]

江戸のコレラ~安政五年 狂騒曲再び、沼津にて

     保健衛生看視員  小川 優

新型コロナワクチン接種は、もはや混乱を通り越して混迷、いや昏迷を極めています。混乱は状況を整理し、対策を取れば解消しますが、昏迷はもはや道理が成り立ちませんから解決のしようがありません。

首相の約束した一日100万回接種を達成するがために、なりふり構わず、あの手この手で接種会場を増やした結果が、再びのワクチン足らずという体たらくです。やっと高齢者の接種が一段落し、今後対象を広げていくはずの、住民向けのワクチン接種の主体であるファイザー社ワクチンは、4月から6月の間の1億回分確保から、これからの7月から9月まででは7千万回に減少。その不足分を補うために大規模接種施設用として供給が始まったモデルナ社ワクチンも、職域接種という不確定要素を取り込んだために供給計画が破綻。原因となった職域接種の募集を急遽停止し、当面再開は望めない状態になりました。

職域接種とはそもそも、「政府としては、自治体のワクチン接種に関する地域の負担を軽減し、接種の加速化を図る」として、自治体による接種に影響を与えないよう、会場や医療従事者等は企業や大学等が自ら確保するものとしています。ところが企業自らの自主性に基づき、コンプライアンスに則って進めている企業は一握り、あとは横並び意識、我先意識の競争心、各省庁の肝入り、エージェントの暗躍、これを機に儲けたい医療機関の存在などが焚き付けとなって、運営自体を丸投げしてまで実施する企業が続出しています。金に糸目をつけない医療従事者あさりは、ただでさえひっ迫している地域の医療体制を、輪をかけて圧迫しつつあります。さらに残念なことは、純粋に学生のために貴重な勉学の機会を取り戻したい大学も、職域接種という魑魅魍魎が跋扈しているのと同じ土俵で篩にかけられていることです。はつたりでもなんでも、先に申請を済ました者が勝ちという状況なのです。
また26日になって大会ボランティア全員にワクチン接種を行うとJOCが公表しましたが、ここで使うのはIOCから提供されたワクチンではなく、東京都が大規模接種用として確保したモデルナ社ワクチンを振り分けるとのことです。いまここでオリンピック開催の是非を論ずる気はありませんが、数万人分のワクチン、本来もっと先に打つべき人がいるのではないでしょうか。強いところ、声の大きなところにワクチンが流れる、まさにワクチンの奪い合い、仁義なき戦いといった相を呈しています。。
少欲知足、相田みつをさんの「奪い合えば足らぬ 分け合えば余る」の言葉が心に沁みます。

ひとつだけ押さえておきたいことは、新型コロナワクチンは万能の妙薬でも免罪符でもありません。感染しても重症化しないことが一番の目的であり、100パーセント感染を防止するものではないということです。さらにワクチンそのものも、開発当時に流行していたウイルスのタイプに合わせて開発されたものなので、現在および今後新たに表れるタイプのウイルスに対して十分な効力があるかどうか保証されているわけでもありません。
そもそも集団に摂取するのは、個人個人が罹りにくくすることで、全体としての集団免疫を獲得することができ、伝播経路を細めることで流行そのものを抑えていくためです。
ですから本人のワクチン接種が終わったからと言って、流行が収まらないうちに感染予防策も取らずに元通りの生活に戻れば、たちどころに感染者が再び増加、流行自体も再燃します。国民全体の8割への接種が終わったはずのイスラエルでさえ、感染が再拡大しており、いったん解除したマスク着用義務を再び国民に求めていることが証左となります。
ワクチン接種完了はターニングポイントにはなり得ても、決してゴールではないのです。

あだしごとはさておき。
安政5年(1808)の駿州における狂騒曲も続きます。
今まで見てきたパターンとして、日頃信心している神々だけでは安心できずに、あらたに強力な信仰対象を勧進するという流れがあります。今回はその典型的な事例となります。
まずは前回ご紹介した原宿から二里足らず、沼津宿の郊外のお話になります。

沼津駅から南に向かい、香貫山の南側の麓に楊原神社があります。創建は不詳ながら、貞観元年(859年)の記録に見られることから、古くからある神社です。その境内にあるのが、吉田神社。

「吉田神社」

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「吉田神社」 ~静岡県沼津市下香貫宮脇

現在の社殿はそれ程古そうには見えませんが、勧進は安政五年。元々は香貫山に続く掃除ヶ峰にありましたが、明治二十八年に当地に遷座しています。さらに昭和二十年に戦災にあって消失、一旦昭和二十七年に再建されたものが老朽化したため昭和六十三年に新築されたものです。神社の前に、由緒を記した比較的新しい石碑が建てられています。

「吉田神社 由緒石碑」

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「吉田神社 由緒石碑」 ~静岡県沼津市下香貫宮脇

石碑の銘文を転記します。
「当吉田神社は、安政五年に、当時この地方に大流行した疫病より下香貫の村人を守ろうとの願いから、横山続きの峯に創建されました。明治二十八年この地に遷宮し、社殿は大正十四年に建て替えられましたが、昭和二十年七月、戦災により焼失してしまいました。その後、昭和二十七年に再建されたものの、近年、老朽化が著しく進んだため、広く地域の皆様より浄財を募り、ここに新築造営を行い、その御神徳を後世に永く伝えようとするものです。
昭和六十三年十月十五日 吉田神社再建委員会」

安政五年に大流行した疫病、まさに安政コレラのことです。国立歴史民俗博物館研究報告第109集2004年3月に高橋敏という方の「安政五年のコレラと吉田神社の勧進」というレポートがあり、下香貫村に残された「吉田太元宮勧進の記」を元にした当地の吉田神社の勧進の詳細が記されています。
周囲の宿、村落でのコレラ患者発生の噂を聞いた村役人らが、もはや神仏の加護なくば除き難しとの意見で一致し、当時幕府の後ろ盾を受けて勢力を拡大していた京都の吉田神社を勧進しようという話がまとまります。
??田神社を勧進するためには、使者を村の惣代として神社に代参させ、その証となるもの、ご神体を持ち帰らねばなりません。こうして二人の代参は、村人から預かった祈祷料を大事に抱えて八月六日未明、下香貫村を出立します。途中名古屋の津島大社、伊勢神宮にも立ち寄って参拝しながら八月十五日に京に到着。ようやく参拝窓口となる取次に話をしますが、ここでまた問題が発生します。
取次人は
「並御祈祷と申すは金二両なり、御封守と申すは金五両なり、是守護は其願一筋の御守りなり、また金七両二分は御小箱の御祈祷と申すなり、是は吉田随一の御祈祷にて障碍退散病難火災盗難等の諸々の災を除かしめ給ふ御守護なり」
と吹っ掛けてきたのです。せいぜい祈祷料は一分位と踏んでいた代参人、腰を抜かします。松竹梅とどれが良い? 安いのはそれなりだけど、特上ならば何でも効くよと聞かされて、村の期待を背にここまで来た手前、安くていいよとは言えなくなってしまったことでしょう。引くに引かれず最高級の祈祷を申し入れます。この後も遅々として手続は進まず、十八日に正式に受理されたものの、満願相成って御守護が相渡されたのは二十日になってからでした。
帰路を急ぐ一行ですが、途中途中で足止めを食い、やっと下香貫に帰り着いたのは八月も晦日に近い三十日になります。疫病が迫りくる恐怖に急かされながらの道中の不安と、村人の想いを一身に背負った二人の二十五日に及ぶ心労は、如何ばかりであったかと思います。
こうした苦労の末当地にもたらされたご神体は、社は幾度が変わりましたが、脈々と受け継がれて、現在も下香貫の人々を見守っています。

「吉田神社」

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「吉田神社」 ~静岡県沼津市下香貫宮脇

さて今回勧進された、京都市左京区にある吉田神社とはどのような神社でしょうか。
御祭神として、健御賀豆知命「たけみかづちのみこと」、伊波比主命「いはいぬしのみこと」、 天之子八根
「あめのこやねのみこと」、比売神「ひめがみ」の四柱を祀り、貞観元年(859)に中納言藤原山蔭によって京の都の鎮守神として創建されたと伝えられます。
健御賀豆知命と伊波比主命は、諸々の災難より逃れ幸福を勝ち取る厄除・開運の神とされますから、疫病という大災から護ってもらうためにうってつけと考えられたのでしょう。
また境内には大元宮があり、こちらには天神地祇八百萬神「あまつかみくにつかみやおよろづのかみ」がお祀りされています。天神地祇八百萬神は即ち、全国津々浦々の全ての神様ということであり、ここにお詣りすれば全国の神社全てにお詣りしたのと同じ神徳があるとされます。

「吉田神社 御朱印」

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「吉田神社 御朱印」 ~筆者蔵

こうして下香貫に勧進された吉田神社。実は同じ駿州で、それも比較的近い地区に同時期に、少し異なる方法で勧進されています。しかし勧進されてからのお祀りのされ方はかなり異っています。沼津市から北に位置する裾野市深良地区。次回はここへ吉田神社が勧進された経過と、現在の祀り方についてご紹介したいと思います。


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