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海の見る夢 №10 [雑木林の四季]

       海の見る夢
          -ガリレオは亡き王女の夢を見るか?ー
                     澁澤京子

 この間、ネットを見ていたら心躍る記事に出会った。インド、デリーの郊外の密林にある廃城にムガール帝国の末裔、アワド王朝の最後の王女と王子の姉・弟が、インド政府の許可のもとにひっそりと住んでいた。王女はだいぶ前に亡くなり、王子もつい最近亡くなったらしい。密林に埋もれた廃城に住むほっそりと背の高い王子が、ターバンを巻いた従者と一緒に写真に写っている。まさに事実は小説より奇なり、さすがインド!・・記事を読んで興奮した私の頭の中ではラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」のピアノ曲が自動的に鳴りはじめた。廃城に住むムガール帝国の末裔の王女たち・・・

ところが興奮もつかの間、よく読むと、ニューヨークタイムズが調査した結果、この姉弟は詐欺師だったことが判明・・父親は王様ではなく、普通の公務員。気のふれた母親が自身をムガール帝国の末裔と信じていたらしい。そしインド政府から城に住む許可と経済的な保護を受けて生活していたのだ・・なんだ、がっかり・・・せめてジャングルに埋もれた古城に、王女と王子の亡霊がさまよっていたらどんなにロマンティックだろうか?

そういえばこの王子様、どの写真を見ても「悲劇の王子様」といった沈痛な面持ちで写っていて、もしかして本物の没落した王子様だったらもっとあっさりと、普通に生活していたんじゃないだろうか。わかるのは、詐欺師だからこそ意識的に、いかにも王子様の様にふるまわざるを得なかったということである。

「見る」「見られる」の間には様々な(言葉の)トリックと障害があって、ほとんどの人は自分が見たいようにしか見ることができない・・自身の都合の悪い事は見ることができない・・人がいかに自身の思い込みや願望、イメージなど表面的なものにいとも簡単に騙されてしまうことか・・いかにあっさりと、常識や思い込み、権威や肩書き、ブランドやイメージなど、言葉・映像のトリックに引っかかってしまう事か?人はまず常識や言葉によって自分自身を騙してしまうのである・・・・

数年前に上野のプラダ美術館展に行ったとき、売店で買ってきた絵葉書はベラスケスのものばかり。人物の性格がわかるような肖像画に思わず惹きつけられたのだ。

ベラスケスは人の内面を瞬間で捉えてしまう天才だったのだと思う。誠実で人の良さそうな黒人奴隷フアン・デ・パレーハ、猜疑心が強くて陰険そうな教皇イノケンティウス四世。ベラスケスにかかると地位とか階級は全く関係なくなる、その人の性格と内面を摑んでしまうからだ。公正な目で描くので、逆に人の無意識にあるものを描くことができたのかもしれない。ベラスケスの描く人の表情がみな、いつかどこかで見た顔のように既視感があるのは人の内面のリアリティを描くからだろう。

ラヴェルのピアノ曲、「亡き王女のためのパヴァーヌ」のモデルになったのはベラスケスの描く有名な「ラス・メニーナス(侍女たち)」の中央にいる可愛らしくて、ちょっとワガママそうな表情のマルガリータ王女。そして王女の横で堂々と威厳を持ってこちらを見ているのは王女のお気に入りの小人マリア・バルボラ。絵筆を持ったベラスケス本人が王女の後ろにいることから、ベラスケスが描いているのはこの絵を見ている私たちなのか、あるいは後方の暗い鏡にぼんやりと映っている国王夫妻なのか・・

つまりこの絵は「見る・見られる」が入れ子状態になっていて、通常、私たちは画家と同じ視点で絵を見るけど、それがさかさまになっているので、室内にいる王女たちから逆に見られているような、不思議な絵なのである・・

ベラスケスはガリレオ・ガリレイとローマのメディチ家の別荘で交流があったらしい。二人のずば抜けた天才はとても気が合ったんじゃないかと思わず想像した。

・・・そして、宝石、銀、金を貴重なものと呼び、地や泥を卑しいものと呼ぶこと以上に愚かなものがありますでしょうか?-不滅・不変をとかく評価する人々は長生きしたいという欲望と死に対する恐怖からこのようなことを言うようになったのだと思います・・・『天文対話』ガリレオ・ガリレイ

当時の科学者にとってアリストテレスはまさに「知の巨人」。「なぜ物は運動するのか?」目的因で考えるアリストテレスの考え方は、キリスト教とは相性が良い。しかし、ガリレオは「なぜ?why?」よりも「どのようにhow?物は運動するのか?」と運動のあるがままの状況観察を重視した。アリストテレス学派にとって、頭の中の抽象に過ぎない数学は自然とつなげて考えられなかったが、ガリレオは自然の基礎には抽象的な数学があると考えるピタゴラス派だった。アリストテレス学派の考え方では、すべての運動の究極因(unmoved mover)に「神」を設定しがちであり、よくわからないものはなんでも「神」とするような、そうした安易な態度を科学者ガリレオは嫌ったのだ。

アリストテレスが地球に住んでいる私たちの感覚を重視したのに対し、ガリレオは思考実験と数式をもとに考える、イデア主義者だったのである。(プラトンはイデアという理念が真の世界と考えた)
もしも今の「リンゴが落ちるのは時空のゆがみ」というアインシュタインの説を、感覚重視のアリストテレス学派が聞いたら地動説以上に、そんな、バカな!と驚くだろう・・

・・ます頭の中で結論を固定し、そしてこれが自分が信頼している人物のものであるからといってこれにしっかりとしがみつき・・『天文対話』

ガリレオが当時のアリストテレス学派に相当イラッとしていたのがよくわかる。アリストテレスという知の権威を盾にした(最初に結論ありき)の論法では、まったくそこで思考が停滞してしまうのである。要するにアリストテレス学派の人々は今風に言えば、正解のある受験勉強やクイズは得意だけど、権威に寄りかかって、間違ってもいいから自分で考えてみるという事をしない人が多かったのだろう。

異端審問にあっても、デカルトやフェルマーなど外国の数学者たちは熱狂的にガリレオを支持していたという。ガリレオは、今に科学は数学的分析によってよりいっそうの進歩と発展を遂げるだろう、と予測した。

アリストテレス学派の「地球は不動で中心である」と言う考え方をガリレオは真っ向から否定した・・熱心なカトリック信者だったガリレオは、科学と宗教を完全に分けて考えた。ガリレオは教会と対立したのではなく、アリストテレス学派に憎まれ嫉妬されて異端審問にかけられたのだった。ガリレオはアリストテレスという権威も疑ったし、わからないものはわからないとする知性を持っていたし、安易に科学と宗教を一致させなかったのだ。

・・しかし僕は神の手がそんなに(人間サイズに)縮められてしまう事を望みません・・『天文対話』

目的因で考えるアリストテレス学派にとって、神の作った宇宙に、人間にとって無駄・無意味なものはひとつもない・・しかし、神は人知を超えているのだから、無意味なものがあってもいいし、世界は我々の分別を遥かに超えている、と言うのがガリレオの反論。ガリレオは、神は不可知であると考えたのだった。確かに人はそれぞれ自分サイズに合わせた視野と世界観しか持てない・・ガリレオはそうした、アリストテレス学派の地球中心・人間中心を批判したのだろう・・

ガリレオとベラスケス。二人の天才のことを考えると、天才の条件として、まず、偏見や曇りのない目を持っている人ということが重要になる。日常を振り返ってみても、頭のいい人ほど、常識で頭が固くならずに白紙状態で物事や人に対峙できるし、謙虚で寛大な人が多いではないか。

ベラスケスはスペイン宮廷のお抱え画家だったけど、自分の描きたいものを見たまま正直に描いた。「ラス・メニーナス(侍女たち)」この絵を見てパッとわかるのは、人物に比べて天上の高い部屋が大きく描かれていることだろう。コロンブスの大航海時代の繁栄はすでに翳り、それは、この絵の部屋の高くて暗い天井が王家の人々を圧迫するようにのしかかっているところに表されているかもしれない。この絵が描かれた時スペイン王家はすでに「昔の栄華今いずこ・・」状態。南米大陸への侵略・搾取によるスペインの繁栄は、日没寸前だった。

ベラスケスはこの絵で何を言いたかったのだろう?ベラスケスの蔵書には、天文学、ユークリッド幾何学や物理学の本が多かったという。ガリレオとはかなり対等に話ができたのではないだろうか?異端審問を受けて苦しむガリレオを見て、宮廷画家であるベラスケスはどう思っただろうか?ベラスケスはガリレオの地動説を黙って支持していたのではないだろうか?

そして、もしかして、この絵のどこかにはひそかにガリレオを支持するベラスケスの主張が隠されているのではないだろうか?・・・という疑問を友人に話した。するとF君は、この絵を見ている私たちを地球として、鏡に映る国王夫婦を太陽とすると、実はベラスケスは私たち(地球)ではなく、国王夫婦(太陽)を描いているのであり、私たち(地球)が中心なのではなく、国王夫婦(太陽が中心)という主張になるのではないか、という鋭い解釈を提供してくれた。

F君の解釈を前提に考えていくと、今度は、鏡に映った国王夫婦(太陽)が薄暗くぼんやりと描かれているのはなぜ?という疑問が出てくる。もしかしたら、国王夫妻のおぼろな影はプラトンの洞窟の比喩、洞窟の中にいる私たちはイデアの薄暗い影しか見ることができない・・ということなのだろうか。

プラトンのイデアのたとえだと、外の光をイデア(真実の世界)とすると、私たち人間は暗い洞窟の中でぼんやりした影しかみえないのである。直覚三角形の頂点に丸い球があるとして、垂直に落ちても斜面を転がり落ちても同じ時間で墜ちるのがイデアの世界(数学的な世界)での事実であり、地球上では空気抵抗や摩擦があるのでどうしても同時に落ちない。それはイデアがゆがんでいるからというのがガリレオの考え方だった・・

あるいはまた、F君の推理では、鏡に映った国王夫妻を描いたのは、光が反射することによって私たちにはモノが見えるという事が表現されているのじゃないか、と。

ガリレオは望遠鏡で木星の軌道を観察しているうちに、光が早く届く時と遅く届く時があることを発見した。つまり、光が進むのにも時間がかかること、光が時間と関係あることがわかったのだ・・私たちが見る太陽は「過去の光」であるという事を鏡に映った国王夫妻によって表現したかったのだろうか?「ラス・メニーナス」に描かれている、国王夫妻。王女もベラスケスも侍女たちももうすでに此の世にはいない。そしてこれを見ている私たちもまた、そのうちいなくなってしまうだろう・・

ガリレオの主張がひそかにベラスケスの有名な絵画「ラス・メニーナス」に隠されているのではないか?はあくまで憶測にすぎないけど、F君の推理は、かなり刺激的で面白かった。

人の感覚より数学を重視したガリレオによって近代科学は発達した・・物理学者のR.ペンローズによると「数学は人が発明するものではなく発見するもの」なのだそうだ・・もしや、数学には秘境のように人跡未踏の地がまだまだたくさんあるということなのだろうか?歴史上の有名な数学者って、志半ばに命を落とした探検家や名クライマーたちのようなものなのだろうか?世界を支えているのは、数学という抽象(虚構)。それって、何て不思議なことだろう。

そう考えると、世界ってもともと夢のような虚構、幻想のように見えて来るではないの。そして世界は私たちが考えているよりずっとデリケートなものなのではないだろうか?
汚したり、傷つければそんなに簡単に回復できないとてもデリケートな、人の心のようにデリケートな・・

ガリレオは数学という抽象・虚構を手掛かりにして、真実を発見した。
ベラスケスは、画家の直観によって見せかけではない、人の本質を見抜いた。

ベラスケスの「ラス・メニーナス」。今も変わらないのは、後方の鏡に映った国王夫妻がうすぼんやりとした影にしか見えないことで、世界は相変わらず私たちにはぼんやりとした姿しか見せない。私たちが相変わらず盲目なのは、常識や権威にしがみついて自分の正しさを手放そうとしないような、ガリレオを異端審問に追いやる側の傲慢な人々に似ているからなのかもしれない・・

ガリレオは数学者らしく、真実の美を好み、虚言を嫌った(異端審問で折れざるを得なかったのは、さぞ悔しかっただろう・・)

異常気象、行き詰った資本主義の時代に生きている今、ガリレオのような発想の転換って、私たちに何よりも必要なんじゃないだろうか?

そして、最も大切なのは、世界は人知を遥かに超えているという、ガリレオの謙虚さかもしれない・

澁澤京子ガリレオ.png      
       「ラス・メニーナス(侍女たち)」 ベラスケス



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