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多摩のむかし道と伝説の旅 №63 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

        -狭山丘陵南麓の根通り道を行く-4

               原田環爾

 先の丁字路をやり過ごしてすぐ左折をして根通り道を進む。程なく日吉神社の前に来る。比較的広い境内地の奥狭山丘陵4-3.jpgまった所にこじんまりした社殿が建っている。創建年代は詳らかでない。別名日枝神社とも山王権現とも言われ、祭神は大山咋命。御神体は元禄4年(1691)三ケ島の照明院から遷宮された。現在の社殿内の御霊舎は文化7年(1810)に波多野文右衛門が奉納したものという。更に道なりに進むと右手丘の上に吉祥院と称する小寺がある。階段下の参道入口の左右には大きな馬頭観音の石塔と庚申堂が立っている。曹洞宗長圓寺の末寺で山号を横龍山と号す。江戸時代の初め長圓寺三世竹同呑行によって開山されたという。本尊は聖観音。狭山22番札所。江戸時代の末頃には寺子屋であったといわれ、明治時代には、第一小学校の前身である吉祥寺学舎が置かれていたという。
狭山丘陵4-4.jpg 根通り道は吉祥寺の正面参道下で左に折れ、狭山丘陵へ向かう広い車道を横切り、狭い街路に入る。すぐ小さな辻があり、辻の左手に熊野神社がある。猫の額ほどの境内地にささやかな社殿があり、その左傍らには蚕影神社の小堂がある。元は土地の氏神を祀っていたが、いつの頃か熊野神社を合祀したという。祭神は速玉男之命である。速玉男之命は日本書紀に出てくる神様で、伊奘諾尊が黄泉国の伊奘冉尊を訪ねた時、見るなという約束を破り伊弉冉の姿をみてしまい、それがもとで離縁することになってしまった。その約束をかためるためにはいた唾から生まれた神という。狭山丘陵4-6.jpg
 更に根通り道を進むとすぐ直線状に真っすぐ伸びる瀟洒な緑X道と交差する。緑道は野山北公園自転車道で、かつて狭山丘陵に村山貯水池、山口貯水池を建設する際に、敷かれた水道道路で、かつ資材運搬用に敷設された軽便鉄道の軌道跡でもある。ちなみに先の吉祥院の前の道を北へ少し行けば、軽便鉄道の横田トンネルがある。首都圏の水瓶多摩湖(村山貯水池)は大正5年~13年にかけて建設された。多摩川の水を羽村村山線という地下導管によって羽村取水所第三水門から多摩湖へ送水されている。その水道を利用して整備されたのが野山北公園自転車道である。ところが昭和初期にこの同じ道を鉄道が走った。昭和3年~8年にかけて第二期工事として狭山湖(山口貯水池)建設が行われ、多摩川の良質の砂利を大量に必要としたことから、その輸送手段としてこの水道上に軌道を敷設し軽便鉄道を走らせた。それため自転車道の狭山丘陵終端近くには廃線となった鉄道の面影を今にとどめる5つのトンネルが 残されている。横田トンネルはその最初のトンネルである。
狭山丘陵4-7.jpg 続いてささやかな八坂神社を右にやり、大きく鍵の手に曲がると武蔵村山の古刹長圓寺の前に来る。山門をくぐると本堂、鐘楼、弁財天などがある。長圓寺は曹洞宗の寺で山号を龍沢山と号す。室町時代永禄11年(1568)に華山秀委和尚によって開山された。本尊は釈迦如来。江戸時代に山門以外を焼失し、本堂は文久年間~明治4年にかけて建立された。境内には三ツ木の地頭大河内氏の墓(三代忠次、五代忠政)がある。
 滝の入り不動尊への道を右にやり過ごし三ツ木に入ると丁字路で十二所神社の参道に ぶつかる。参道を北に採ると鳥居の向こうに上り石段がある。左右の石盤碑を見ながら上がりきるとそこに社殿がある。三ツ木村の鎮守で、奈良時代元明天皇の和狭山丘陵4-5.jpg同年間(708~714)の創建と言われる。祭神は天神七代地神五代之大神、大己貴命、加久津智命、素戔嗚尊である。天神七代と地神五代の十二代の大神を祀っていることから十二所神社と呼ばれる。創建当時の鎮座地三ツ木は貢と記載され、貢物を調製して奉るという意味を現していたという。社殿の左手の坂を下ると阿弥陀堂がありその後ろに墓苑が広がっている。阿弥陀堂の創建年代は不詳であるが、先の長圓寺が管理しているという。また阿弥陀堂の筋向いには峰守稲荷がある。/
 根通り道はこれより一旦現青梅街道に出る。バス停「峰」をやり過ごし、丁字路「峰」 から斜めに分岐する狭い小道がある。これが三ツ木の根通り道でここをうねうねと進む。程なく丘陵麓の奥まった所にある慈眼寺へ向かう路地に来る。向ってみると寺はただ小さな観音堂があるだけの小寺だ。山号を白布山と号す曹洞宗の寺で本尊は聖観音。創建年代は不詳であるが亀雲が開山したという。狭山観音霊場第23番札所になっている。明治時代は村山第二小学校として学校に共用されていたという。
狭山丘陵4-9.jpg この先行き止まりになっているので元に戻り、後ヶ谷戸通りを経由して再び丘陵麓へ向かう道を採ると後ヶ谷戸自治会館の前に来る。会館の右隣りの上り坂はこの奥にある伊勢神社の参道だ。鬱蒼とした樹林と落ち葉で覆われた参道を100mも上ればそこに小さな社殿が建っている。後ヶ谷戸の人々により祀られた小社で、祭神は天照大神。祭礼は十二所神社が執り行っているという。神明社とかお伊勢様とも呼ばれている。
 後ヶ谷戸自治会館の前の道からうねうねと丘陵麓の小路を進と、やがて道幅の広いバス道に出る。北側100mばかり先には武蔵村山市の総合体育館が眼に入る。車道を左に採るとすぐ丁字路帯に来る。角地に道標が立っている。道標には「→野山北・六道山公園管理所700m ←里山民家500m」などと狭山丘陵4-10.jpg表記されている。右折して里山民家方面の道を採る。この辺りから三ツ木地区から岸地区へ移ることになる。やがて沿道右に禅昌寺という比較的大きな寺の前にくる。臨済宗建長寺派の寺で山号を岸清山と号す。室町時代の生長元年(1428)恵山和尚によって開山された。江戸時代に強風で堂が壊れ、文化14年(1817)に再建された。現在の本堂は昭和46年建てられた。また観音堂は文禄3年(1594)の創建と伝えられ。狭山観音霊場第24番札所になっている。ほかに少飛の塔と称する陸軍少年飛行兵の供養塔がある。陸軍少年飛行兵出身者からなる少飛会による次のような建立の趣旨が刻まれていた。「陸軍少年飛行制度は昭和9年2月、第一期生の所沢陸軍飛行学校入校にはじまる。陸軍航空の拡充要請により昭和13年、村山に東京陸軍航空学校が創立され第六期生が入校、さらに大津、大分に陸軍少年飛行兵学校が、また急速養成のため各狭山丘陵4-11.jpg地に教育隊が設立され、終戦時の第二十期生まで四万六千の若鷲が巣立った。陸軍航空の操縦・通信・整備の中堅として支那事変、ノモンハン事件を経て大東亜戦争に参加、日本の危急存亡に際して、北に南にと空の第一線に身命を賭して活躍した。そして四百五十余柱の特別攻撃隊員をはじめ、四千五百余柱の若鷲が祖国の安泰と繁栄を念じつつ大空に散華した。いまだ十代の紅顔の少年達であった。昭和38年、東京陸軍少年飛行兵学校の跡地に慰霊碑を建立し、以後毎年現地において生存者相集い慰霊の誠を捧げて来たが、このたび永代にわたる供養を念願し、ゆかりの人々の加護のもとにこの地に供養塔を建立することになった。遷座に当たり、英霊の遺勲を偲び、久遠の平和を祈るものである。平成二年十月十日 陸軍少年飛行兵出身者一同 少飛会」(つづく)


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