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多摩のむかし道と伝説の旅 №61 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

         -狭山丘陵南麓の根通り道を行く-2
                原田環爾

狭山丘陵2-1.jpg 高木神社の前の街路を道なりに500mも西へ進むと再び志木街道に合流する。街道を更に西へ向かい、左手にスーパー「TAIRAYA」が目に飛び込むと南から北上してきた青梅街道がぶつかる丁字路帯「奈良橋」に来る。志木街道はここで終わり、この先は不自然に直角に折れた青梅街道が引き継ぐことになる。青梅街道に入ってすぐ右手斜めに入る小路があるのでその道を採る。静かな街道裏の集落の道を進むと奈良橋川に架かる小橋の袂に来る。橋を渡り二股の分岐道を左に採ると程なく民家が途切れ、右手の広々した駐車場の先に丘陵を背にした寺が見えてくる。雲性寺と称する寺だ。山門の手前下には庚申塔や馬頭観音などの石塔が並び、山門をくぐると境内に本堂、観音堂、仏足石などがある。こじんまりした境内ながら綺麗に整備されており、とりわけ2本の銀杏の大木が見事である。真言宗豊山派で院号を観音院、山号を天王山と号す。永享11年(1439)創建という。本尊は像高約36cmの十一面観世音菩薩坐像である。狭山三十三観音霊場の十八番札所になっている。元禄年間に地頭を務めていた旗本の石川太郎右衛門が寺を大きくしたという。残念なことに文久2年(1862)の火災で古記録をすべて焼失したという。

狭山丘陵2-2.jpg 雲性寺を後にすると再び丁字路でぶつかる。左を採れば青梅街道に復帰し、右を採れば山麓の裏通りとなる。右に入って裏通りへ進む。程なく前方左にモダンな 建物が見えてくる。東大和市立郷土博物館だ。入館は無料だ。博物館の前の道路脇に面白い猪のモニュメントが立っている。この地域は昔猪が多く生息し墓地の墓が荒らされて困ったので、大きな落とし穴を作って捕獲したといい、どうやらその落とし穴にかかって捕獲された猪をイメージして作成されたようだ。ちなみ郷土博物館の裏の丘の上に八幡神社がある。境内地は思いのほか広く、御神木狭山丘陵2-3.jpgと思われる樹齢270年の杉の大木の根株が保存されている。かつては参道の入口にあったという。なお神社の手前には大和八幡幼稚園があり、右手の谷戸には八幡谷戸遺跡という縄文時代中期の遺跡がある。由緒書によれば、八幡神社は創立年は不詳なるも太古よりの鎮守という。いつの頃の戦か宮が荒れ果てていた頃、ある武士が逃げてきてこの森に露営しようとして四方を見ると、暗い中ではあるが宮であるのがわかった。武士が宮の中で眠ると、夢に神が現れ、「我は八幡の神なり、当社によく宿ってくれた。宮が破損しようとしているので村人に建て替えることを知らせてほしい」と言った。夢から覚めて翌朝地頭に所に行きそのことを告げた。天正3年(1575)領主石川太郎右衛門の寄付により、社殿が再興され、その後114年を経て元禄2年(1689)拝殿が建てられた。なお現在の拝殿は昭和7年に建てられたという。

狭山丘陵2-12.jpg 郷土博物館前の蔵敷の集落の道を西へうねうねと進むと程なく蔵敷太子堂跡の前に来る。太子堂跡と言っても今は普通の民家風の建屋があるだけで、境内地は囲いもなくうっかりすると見落としてしまう。ただお堂の前の広場の片隅に地蔵堂と出羽三山供養塔が立っているのが唯一堂跡という印象を残している。太子堂は聖徳太子を祀るものであるが、新編武蔵風土記稿によれば旧多摩郡山口領(現東大和市・武蔵村山市・東村山市一帯及び清瀬市・小平市・立川市 ・瑞穂町の一部)に存在した太子堂は、寺院に付属するものを除けばここ蔵敷の一堂のみという。明治5年学制発布に伴いここに汎衆学舎と呼ぶ蔵敷村の学校が置かれたという。

狭山丘陵2-5.jpg 太子堂跡を後にすると再び元の青梅街道に合流する。合流点を東に20mばかりバックした所に蛇行してきた奈良橋川に架かる村山橋がある。その橋の袂に風邪・咳の神様「おしゃぶき様」の赤い小祠が隠れるようにある。街道を更に西へ採るとすぐ右手に熊野神社入口の案内板が目に入る。北に伸びる細い路地に入ると前方約100mの山裾に鳥居がある。鳥居を抜け石の急階段の参道を上りきるとささやかな本殿がある。創建年代は詳らかでないが、16~17世紀には既にこの地に社殿はあったという。一説では地元の内野家が鬼門除狭山丘陵2-7.jpgとして建てたと言われる。こじんまりした境内は鬱蒼とした樹木で覆われ静かで落ち着いた鎮守である。再び元の青梅街道に復帰する。街道左手すぐの所にレストラン「ガスト」があり、その街道筋向いの内野医院の前に蔵敷高札場跡がある。江戸時代にお上が庶民に決まり事を知らせるために、村の辻々に立てたものだ。

 高札場から100m足らずで今度は厳島神社の案内板が立っ狭山丘陵2-8.jpgている。やはり北に伸びる路地の先の南麓に建っている。ところで路地の入口の一角に笠つきの大きな石塔が建っている。表面には「光明真言一千二百萬遍供養塔」と刻まれ側面には「一見曼茶 五逆消滅 真言得果 即身成仏」と刻まれている。百万遍はしばしば見るが一千二百萬遍とは筆者はあまり見たことがない。念仏を一千二百万回唱えればご狭山丘陵2-9.jpg利益があるというものだ。講中の念仏が1200万回になったのを記念し明治32年(1899)造立されたという。一方厳島神社は弁天神社とも言う。狭山丘陵の湧水との関わりから内野家が守護神として創建したものという。現在の社殿は天保6年(1835)建てられたという。

 青梅街道を更に西へ進むと程なく南から太い直線道路が青梅街道に直角にぶつかる大きな丁字路帯「蔵敷公民館北」に来る。この太い車道は多摩都市モノレールの終点上北台駅から真っ直ぐ北に伸びる近年の新設道路で、今は芋窪街道と称してい狭山丘陵2-11.jpgるが、本来の芋窪街道はここより少し西寄りの道だ。実際青梅街道をここから300mばかり進めば南からやや狭い道路がぶつかる丁字路帯「芋窪」があるが、ここが旧芋窪街道の終端である。ちなみに芋窪という名は道筋が芋窪村に通じていたことによる。昔は井の窪であったのがいつの頃か芋窪に変わったという。この丁字路帯のすぐ西の所に、この地域きっての古社豊鹿島神社がある。長い参道の先の丘陵南麓の境内に大きな社殿が鎮座している。ちなみに参道の中程左に中がガランとな狭山丘陵2-10.jpgった御神木の欅がある。樹齢千余年という。豊鹿島神社の創建は文武天皇の慶雲4年(707)と伝える。祭神は軍神の武御加豆智命。本殿は天文19年(1550)の建立とされるが、新編武蔵風土記稿には文正元年(1466)の棟札があったと伝える。古くから芋窪の鎮守として信仰を集め、通称「鹿島様」と呼ばれて親しまれてきたという。ちなみに豊鹿島の豊とは天に対する地上を意味するものという。(つづく)


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