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論語 №120 [心の小径]

三七四 子路、君子を問う。子のたまわく、己を修(おさ)むるに敬を以てす。いわく、かくの如きのみか。のたまわく、己を修めて以て人を安んず。いわく、かくの如きのみか。のたまわく、己を修めて以て百姓を安んず。己を修めて以て百姓を安んずるは、尭舜(ぎょうしゅん)もそれ猶これを病めり。

            法学者  穂積重遠

 子路が、君子とは何か、をおたずねしたら、孔子様が、「謹んで怠ることなき自己修養によって人格完成につとめるのが君子じゃ。」と答えられた。しかし子路には孔子様の真意がわからず、甚だ物足りなく思って、「タツタそれだけでござりますか。」と言ったので、かさねて「自己修養によって人を安んずる、すなわちその人の人格完成の影響感化によりその同園の人を安定させ、それぞれその所を得しめるのが君子の道じゃ。」と言われた。ところが子路はそれでも満足せず、も一度「タツタそれだけでござりますか。」と押し返した。そこで孔子様がおっしゃるよう、「自己修養の結果として百姓を安んずる、すなわち天下万民が安定してそれぞれその所を得るに至る、それが君子の道の極致であるが、『己を修めて百姓を安んずる』ということは、聖天子尭舜でさえもご苦心なさった難事であるから、お前などはまずもって、『己を修めて以て人を安んずる』あたりを目標としなさい。」

 孔子様は子頁に対しても、「尭舜もそれ楢これを病めり」とおっしゃった(一四七)。子貢の智、子路の勇、とかく先走りたがるのを押えられるのである。

三七五 原壊(げんじょう)、夷(い)して俟(ま)つ。子のたまわく、幼にして孫弟ならず、長じて述ぶるなく、若いて死せず、これを賊(ぞく)となすと。杖を以てその脛(ひざ))を叩く。

 「原壌」は孔子様の古なじみらしい。母がなくなった時、孔子様に葬儀万端の世話をさせ、自分は木に登って歌っていた、と伝えられる礼法無視の偽悪家である。「夷」は「うずくまる」とある。膝をだいていたのか、アグラをかいていたのか.

 原壌があぐらをかいたままで孔子様の近寄るのを待ち受け、立って迎えようともしなかった。昔なじみとはいいながら、今日の孔夫子に対する礼でない。さすがの孔子様もムツとされて、「おさない時は目上に対して謙遜従順ならず、おとなになっても何一つ称すべき善行もなく、年を取っても死にもせずに婆婆ふさげをしている、そういうのを寿命盗人というのじゃ。」と言いながら、持ったる杖で原壌のすねをたたかれた。

 孔子様もなかなか手きびしい。昔なじみ故のたわむれだという説もあるが、必ずしもそうではあるまい。無礼不行儀は心安い間柄でも、マアいいわでは済まされないのが孔子様である。

三七六 闕党(けっとう)の童子、命を将(おこな)う。或(ある)ひとこれを聞いていわく、益する者か。子のたまわく、われその位に居るを見る。その先生と並び行くを見る。益を求むる者にあらざるなり、速やかに成らんことを欲する者なり。

 闕という村の出身の少年が孔子様の家で取次役をしているのを見て、ある人が、「先生が取次をおさせになるところをみると、よほど出来上がった少年とみえますな。」と言った。孔子様がおっしゃるよう、「イヤそうではありません。実はあの少年は生意気で困るのです。少年は座敷の隅にすわるべきものだのに、あれはおとなの就くべき席にすわります。また、年長者と行くときにはうしろからついて行くべきものであるのに、あれはおとなとならんであるきます。さようなことでは、はやくおとなぶって速成に甘んじ、大器晩成を期するものとはいえませんから、行儀作法見習のために取次役をさせているのであります。」

『新訳論語』 講談社学術文庫


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