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医史跡を巡る旅 №85 [雑木林の四季]

江戸のコレラ~パンデミック・パニック 序章

           保健衛生監視員  小川 優

延長された緊急宣言の期限まで、あと1週間。数値的には一進一退、否、むしろ反転劣勢の状況にあります。一番の懸念は、変異株の感染増加です。
3月3日に国立感染症研究所が発表した「感染・伝搬性の増加や抗原性の変化が懸念される新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)の新規変異株について(第7報)」によると、「VOC(Variants of Concern;懸念される変異株)はウイルスの感染・伝搬性が増加している可能性があることから、主流株としてまん延した場合には、従来と同様の対策では、これまで以上の患者数や重症者数の増加につながり、医療・公衆衛生体制を急速に圧迫する恐れがある」としています。
懸念される変異株としては現在、英国で最初に検出されたVOC-202012/01、南アフリカで最初に検出された501Y.V2、ブラジルからの帰国者において日本で最初に検出された501Y.V3の3つのタイプが注目されています。
イギリスから広まった変異株については、ジョンソン首相が、感染力が最大70パーセント高いと発言している通り、一人の感染者から何人に感染するかを数値化した実効再生産数が、従来のタイプより0.52から0.72高いといわれます。現在までの日本国内の状況では最大で1.5程度とされますから、この数値が2を超えることとなります。つまり、今までは1人の感染者が1.5人に感染させていたのが、2人以上に感染させることとなりますから、倍々ゲームで感染者が増えることとなります。
南アフリカ型、ブラジル型は、イギリス型同様、感染力が強まっている恐れがあるほか、中和抗体からの逃避性が高い、つまり従来型に感染した後でも、再感染を阻止する力がうまく効かない可能性が指摘されています。これはワクチンの効果を左右することともなります。
問題の国内のVOCの状況ですが、新規変異株症例情報(2月26日現在)と感染症発生届(3月8日現在)のデータによると、国内症例158例、検疫症例49例となっています。内訳は国内症例で英国株152例(96パーセント)、南アフリカ株4例(3パーセント)、ブラジル株2例(1パーセント)であり、国内症例において渡航歴ありは6パーセント、渡航歴無しは94パーセントでした。つまりこれらの変異株がすでに国内に入り込み、感染増加の経過が見られるということを示しています。
緊急事態宣言解除については単に数値だけではなく、こうした状況を見極める必要があり、解除後日をおかずに再発令するような事態を避けなければなりません。

あだしごとはさておき。
83号から始まった江戸のコレラ騒動記ですが、未知の新感染症という意味で現在の新型コロナウイルス感染症に通じるところがあり、当時の為政者の対応、民衆の動向など、今と対比することもできそうですので、もう少し詳しく書きたくなりました。
すでに掲載し始めた記事がありますが再編成し、お届けしたいと思います。

今現在、国内ではコレラは恐ろしい伝染病という認識はありません。もちろんワクチンをはじめとする予防法、経口補水および輸液などの治療法の確立という効果が大きいですが、むしろ公衆衛生上の観点、つまり下水道の完備という社会環境の整備により、爆発的に感染が広がる懸念がなくなったことが大きいといえます。
社会的インフラが確立していないアジア、アフリカを中心に世界では今でも毎年数百万人(最大推定430万人)が感染し、数万人(同14万人)が亡くなっています。特に幼児・小児における感染と死亡率の高さは問題で、コレラ感染と確定されない潜在的な感染者、死亡者が多数いることが懸念されています。
コレラの主症状は下痢です。学生時代、「米のとぎ汁状の下痢をみたら、コレラを疑え」と教わりましたが、まさにその通りです。下痢は1日数十回痛みを伴わず、まさにシャーという感じで、1日当たり数~10リットル、時に数十リットルを排出します。下痢により水分と共に電解質を喪失するため、脱水と同時にアシドーシスに至ります。外見上も、急激な脱水は皮膚の乾燥と弾力の消失、目が落ち込み、老人様の顔貌への変容(コレラ顔貌)、低カリウム血症による痙攣などを引き起こします。感染から発症まで数時間から数日、重症で効果的な治療がなされない場合は、発症当日あるいは数日中に死亡することもあります。なお現在日本で見られるのはほとんどエルトール菌といわれるもので、比較的症状が軽いのですが、古典コレラ菌あるいはアジア菌といわれるタイプが、上記のような重篤な症状を引き起こします。

「コレラ菌とコレラ病変」

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「コレラ菌とコレラ病変」 ~標本模型 筆者蔵

コレラが歴史の表舞台に出たのは、19世紀になってからです。もともとアジアの各地で散発的に発生していたと思われますが、1817年にベンガル地方のカルカッタ(現コルカタ)に端を発し、瞬く間にアジア全域からアフリカに広がり、1823年まで続きます。一地方病であったコレラが、瞬く間に世界に広まった理由の一つに、梅毒もそうですが帝国主義の台頭による植民地の拡張があります。イギリスは、1757年にフランスとのインド植民地化指導権をめぐる戦いに勝利し、東インド会社による土地支配を経て、自由貿易主義による貿易相手地域としてではなく、その土地と人間を収奪するという植民地支配に転換する途上にありました。インドで収奪された富はイギリス本国に運ばれ、そして本国から艦隊と軍隊が新たに植民地となった地域に派遣されました。こうして世界にコレラが広がりました。
これが1回目のコレラ・パンデミックと言われています。パンデミックの余波は当時鎖国中の日本にまで及びます。

文政5年(1822)、おそらく中国か朝鮮を介して対馬、下関あるいは長崎から侵入。萩、広島から関西方面に広がりました。初めて見る下痢を中心とした激烈な症状、急速な病状の悪化から死に至ることから、対馬では「見急」、豊後で「鉄砲」、芸州では「横病」、浪華の「三日コロリ」などと呼ばれました。
この時の流行では、萩城下で8月に死者は600人に近く、広島、大阪でも多くの感染者と死者を出しました。大阪では「千日の墓地に荼毘で附したもの二千八百三十一人に及び」との記録があります。昨年8月に梅田地区で再開発にあたり1,500体にも及ぶ人骨が出土した際には「墓地内の北側は石垣で区切られて一段低くなっており、土をかけたりしただけの埋葬や、穴に何人もまとめて入れた埋葬例が複数あった。発掘担当者は「疫病で一度に亡くなった人などが埋葬された区画かもしれない」と推測している」との報道もされており、先の記録を裏付けるものかもしれません。

「少彦名神社」

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「少彦名神社」 ~大阪府大阪市道修町 少彦名神社(2002年)

大阪道修町の少彦名神社の神農祭は、文政5年に大坂でコレラが流行した際に、薬種仲間が病除けの薬として「虎頭殺鬼雄黄圓」(ことうさっきうおうえん)という丸薬を作り、「神虎」(張子の虎)の御守と一緒に神前祈願の後施与したことに由来するといわれています(神社由来)。

「五葉笹と張り子の虎」

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「五葉笹と張り子の虎」 ~大阪府大阪市道修町 少彦名神社

明治時代になって薬事法が施行され医薬品が管理されるようになると、「虎頭殺鬼雄黄圓」を配布することが出来なくなりました。現在では五葉笹に張り子の虎と少彦名神社の御札をつけ、家内安全無病息災の御守として授与しています

「張り子の虎」

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「張り子の虎」 ~大阪府大阪市道修町 少彦名神社

やがて9月となり、気温の低下と共にコレラ感染の勢いが沈静化したため、東海地区を最後にそれ以上東上せず、東日本には広がりを見せなかったと考えられます。当時睨みを利かせていた箱根の関所も一役買ったのかもしれません。

2回目のパンデミックは1826年に始まり、アジア、アフリカばかりかヨーロッパ、南北アメリカまで広がりましたが、幸いにも日本には侵入せず、1837年まで続きます。フランスでは、ブルボン朝最後のシャルル10世がこのときコレラにり患して死亡しています。

3回目は1840年から1860年まで20年も続き、またも世界中で猛威を振るいます。アメリカでは第11代ポーク、第12代タイラーと、2人の大統領の命を奪ったほか、イギリスの首都ロンドンでは10,000人以上が亡くなります。このとき、ソホー地区のブロードストリートではわずか2週間で700人が死亡します。患者の発生に地域の偏りがあることに気が付いた医師のジョン・スノウは発生状況を綿密に調べて、一つの井戸に注目します。多くの反対をうけながらも井戸のポンプを使えなくしたところ、急速に同地区における感染は収束しました。後の調査で、その井戸の近くに患児のオムツを洗った水を捨てたことが、この地域における流行を引き起こしたことが判明します。これが科学的な疫学調査の始まりとされ、公衆衛生の礎となります。

この時のパンデミックは安政5年(1858)5月21日、日本にも侵入し、各地に大きな傷跡を残します。次回はその道筋を追います。


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