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海の見る夢 №3 [雑木林の四季]

       -明烏夢淡雪(あけがらすゆめのあわゆき)―

                澁澤京子

 宮城道雄のエッセイに、列車に乗ると隣の席に座ったお婆さんがずっと浄瑠璃節を口ずさんでいるということが書いてあって、明治時代には、今のポップスや歌謡曲をくちずさむ感覚で浄瑠璃を口ずさむ人がまだ結構いたらしい。芭蕉の俳句も、謡曲からとったものが多いらしく、謡曲の一節が当たり前のように頭の中にふっと浮かんでくる芭蕉の時代の日本人も、浄瑠璃の一節が自然に浮かんできて口ずさむ明治の日本人も、今の私たちと同じ日本人でありながら言語感覚も音楽に対する感受性も相当に違ったのでは?と思う。

外国映画を観ていると、会話の中によくシェークスピアだの詩の一節をすらっと引用したりするけど、教養というより音楽のように肉体化された言葉って、おそらくどの民族にもあるのであって、そうした連続している日本語の古典を私たち今の日本人は失ってしまったのじゃないだろうか?

私は文楽を観に行っても、横に出る字幕の映像を見ないと、途中で何を言ってるのかよくわからなくなる、というレベル。演者のせいではなく、あくまで私の教養のないのが原因。高校生の時、同級生のK子ちゃんと今はなき青山van99ホールに正蔵(8代目)を聴きに行きましたが、私には猫に小判だったと思う・・義太夫の故・住大夫の本によると、義太夫を語るにはまず大阪弁を学ぶことから始めないといけないらしい、ところが住大夫の孫世代になると、大阪で育ってもちゃんとした大阪弁を語ることができない、と言うことが書いてあった。古い文化を大切にする大阪でさえそうなのだから、東京の変わり方はもっとすごいだろう・・

子供の時、祖父に「最近の若い人は濁音の発音がなんだか汚いね。」と注意されたことがあった、「ガ」ではなく「グヮ」と鼻に抜けるような発音が正しい日本語なのだそうだ。そういえば昔の本を見るとルビは「グヮ」とふってある・・漱石の小説を読むと「料簡」だの「按配」だの、祖父は使っていたけどもう使われなくなった言葉がたくさん出てくる。
永井荷風によると東京の庶民は父親のことを「おとっつあん」母親のことを「おっかさん」と呼び、少し上流階級になると「お父(とと)様」「お母(かか)様」と呼んでいたのだそうだ。

「ボキャ貧」と自称する政治家がいたけど、明治期の日本人に比べると明らかに今の日本人の方が、古典の教養がないという意味では「ボキャ貧」なのかもしれない。

~春雨の 眠ればそよと起こされて 乱れそめにし浦里は~『明烏夢淡雪』

浄瑠璃と清元の区別もつかない私が(イヨー!という掛け声があるのが清元?)もっとも粋筋の音楽である新内節について語るのもおこがましいかもしれませんが・・

山田五十鈴と長谷川一夫の『鶴八鶴次郎』を観た。いつも芸のことで喧嘩しては別れ、やっと仲良くなったかと思うとまた芸のことで大喧嘩という新内節のコンビの話。芸にかけてはプライドのある二人、決して御互いに譲りあうことができない。二人とも幼ななじみで、子供の時から一緒に音楽を学んでというところがシューマンとクララのシューマン夫婦に似ている・・
『鶴八鶴次郎』では、喧嘩別れしているうちに鶴八(女)はパトロンと結婚してしまう。鶴八という最高の相棒を失った鶴次郎はどんどん落ちぶれて・・という切ない話。高田浩吉・淡島千景コンビの『鶴八鶴次郎』のほうは、最後のシーンの高田浩吉のダメ男ぶりが哀しく、一途な淡島千景がかわいいけど、こっちの方は、山田五十鈴がいかにも芸のたつ三味線弾きという感じがかっこよく、長谷川一夫と火花を散らして喧嘩するシーンや、喧嘩のきっかけになる男と女の間の微妙な心理と二人の意地の張り合いが迫力ある。長谷川一夫は落ちぶれても陽性で華があるせいか、あまり哀しいダメ男と言う感じがしないが、たとえ女に嫌われても女の身の上をそっと思いやるという男気がかっこいい。

『鶴八鶴次郎』の鶴次郎は、新内節の岡本文弥さんがモデルとされているらしい。岡本文弥さんは1895年、東京下谷生まれ。生まれた時はまだ樋口一葉が同じ町内に住んでいた・・その頃の下谷は自然が残っていてマムシがよく出て、根津のあたりにも何軒か遊郭があったらしい。最後の吉原で新内を流して歩いていると上からおひねりが飛んできて、それが桜の木の枝に引っかかりゆすって落として拾ったのだそうだ。桜の花びらがはらはらと・・まるで歌舞伎みたいではないですか・・呼ばれて三階に上がることもあり、多くはお客と遊女の恋のBGMとして新内節を唄ったのだそうだ。

岡本文弥さんのエッセイが文章がうまくてすごく面白いのは、俳句をたしなんでいるせいかもしれない。文章にも人柄の良さがにじみ出ていて、遠慮深く控えめで、他人に恥をかかせない洗練された気遣いがあり、決して開き直ったり、人を押しのけたり、人を見下すとか、図々しく人を利用することのできないデリケートな神経の持ち主で、弱気を助け権力には反抗する、と言う江戸っ子気質。そのため戦前からずいぶん警察には睨まれていたらしい。しかし、この人はどんな状況でもゆったりと構えることのできる、心のゆとりと遊びを持った洒脱な人だったのだろう。
幸田露伴が、どんなにお金がなくても楽しめるのが本当に教養のある人だというようなことを書いていたけど、そういう意味では岡本文弥さんは教養豊かな清貧の人なのかもしれない。

・・芸の上でも日常生活でも、それこそ自分の正体というものを摑んで、それに打ち込めたらこんな幸せはないでしょう。
・・身を捨てるとは、具体的には他人に尽くすことでありましょうか。
・・芸はある一線までは誰でも行きつくことができる。それを超えることはなかなか難しくそれを超える人はきわめて少ない。(中略)その一線を超えると風格が出てくる。芸には風格がなくてはいけない。
・・戦争中、新内は色っぽいものとしていち早く虐待されましたが、害毒は色っぽくないものの中のほうにこそあとからあとから生まれたようでありました・・ 『谷中寺町・私の四季』岡本文弥

岡本文弥さんのエッセイを読んでいると思わず抜き書きしたくなる箇所がたくさん出てくる。尊敬するのは世阿弥と芭蕉だそうです。人を見る目も鋭くて、粋の世界に身を置いていると、人を見抜く目も鋭くなってくるのだろう・・

・・「夜色楼台」です。ああと思わず唸りました。写真を買いましたが原作の濃淡が出ず、凄いほどの寂しさは伝わりません。それでもその写真を見ていると何といいますか、人生の深さに触れます。こんな新内が語れたらと地団太踏みたいような焦りさえ感じるのです・・

岡本文弥さんが「こんな新内が語りたい」と言う蕪村の「夜色楼台図」。夜の闇の中に、雪景色の京都の街並みがぽうっと白く浮かんでいる墨絵。夜汽車の中から、ぽつんと遠い家の灯りを眺めているような、何ともいえないさびしい感じがある。

花柳界に長い間身を置いていると、普通の人よりもずっと生きることの寂しさに敏感になるのかもしれない。恋とは切っても切り離せない世界だけに、生きることは夢のようなものだという感覚が普通の人よりもずっと強くなるのかもしれない。




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