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論語 №116 [心の小径]

三六二 子のたまわく、人の己を知らざるを患えず、己の能(よ)くするなきを患う。

           法学者  穂積重遠

 孔子様がおっしゃるよう、「人が自分を知らないことを心配するな。自分に知られるだけの他力の脳力のないことを心髄せよ.」

 これは孔子様がいつも言われることで、外にも同趣旨が三カ所に出ているが 二六・八〇・三九四)、いちいち文句がちがう。

三六三 子のたまわく、詐(いつわ)りを逆(むか)えず、信せられざるを億(はか)らず、そもそも先ず覚(さと)る者はこれ賢か。

 古註に「逆は末だ至らずしてこれを迎うるなり、億は末だ見ずしてこれを意(おも)うなり。」とある。今日の「先覚者」という言葉はここから出ているのだろうが、多少意味がちがう。ここの先覚はむしろ「直感」というような意味。

 孔子様がおっしゃるよう、「人が自分をだましはせぬかとこちらからあらかじめ迎えてかかったり、人が自分を疑って信用せぬのではないかと取越苦労したりしないで、正心誠意に人に接しながら、しかも相手のいつわりや疑いが鏡のごとくこちらに映るようになったら、それこそ賢人というものだろうか。」

三六四 微生畝(びせいほ)、孔子に謂(い)いていわく、丘(きゅう)よ、何ぞこの栖栖(せいせい)たる者を為すか。すなわち佞(ねい)を為すことなからんや。孔子いわく、敢えて佞を為すにあらず、固(こ)を疾(にく)むなり。

 「微生畝」については、荻生徂徠が「何人たるかを知らず。けだし亦(また)郷先生にして、孔子において先輩たり。何ぞや、その孔子を名いうを以てなり。」と言っている。人生を超越して独り高しとする老荘者流であろう。

 微生畝が孔子に向かって、「丘よ、何だってそんなにアクセクしているのか、いたずらに弁を好むきらいがあるではないか。」と言った。孔子が風に柳と受け流して、「イヤ弁を好むわけではありませんが、独善にこりかたまって世間を白眼視することがきらいだものですから。」

 天下を憂え生民を愛して、東奔西走される孔子の素志悲願を知らずして冷笑をあびせるいわゆる隠君子も相当にあったことが、『論語』中にもいくつか見える。この場合の孔子様の答は、相手が長老なので言葉は丁寧だが、相当にあてつけがましい。

『新薬論語』 講談社学術文庫


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